架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

切断のち再構築

 

夏は京都の街並みを見上げてはこの街とはもうさよならなのか、感慨深くある謂れはないがと思ってばかりいた記憶があります。冬になると、そういう嘘っぽい感傷に浸るのに飽きてしまったのか、街のことを考えなくなりました。

移動というのは一瞬だから、釣り合いを取るために精神的なバッファが必要だ、と思ったりしています。環境が変わることは物理的な意味合いよりも心理的なほうに着目するべきで、たとえばそれは、引っ越すのは一日でもできる、けれど精神の重心を移すのには時間がかかる、という意味です。必要なのは片付けで、京都で散々いろいろな場所を汚してきたのだから、その代償を支払うべきだ、ここまで言うとちょっと過言かもしれませんけど、だいたいそういう意味です。

爪を切る心象風景があります。爪を切ると、パチンと軽快な音を立てて爪の破片がどこかへ飛んでいきます。八畳の部屋でそれを6年間続けていると、部屋の隅に爪の破片が蓄積されていき、気づくとずいぶん大きなごみの山になっているのです。

膨張より切断のほうが多かった時代だった気がします。これは自分のことです。私という身体は時間の進みに従って変容をしていく、そのプロセスが単に大きくなるというよりは自分の醜悪な点や不要な思想を切り落としてばかりだった。時間とともに増えていく記憶と経験、その最後尾を切り落として、ありのままの姿で放蕩をしつつ前進をしているように見せていたのだと自覚しています。爪を切るというのはそういうことです。前進をしているのではなくどこまでも追いかけてくる自分の人間性を切り落とす、その自壊によってあたかも前に進んでいるように見える、その様子が爪切りに似ているなと思った次第です。

誰に伝えることでもないのですが、部屋の中にある透明なごみ袋が実体的な感覚として見えるようになりました。ごみ袋というのは比喩で、生活のためにやらなければいけなかったことをたくさん放置してここまでやってきてしまったから何とかしなければならない、ということです。ごみ袋は捨てにいかなければならないし、切った爪はいつかまとめてごみ袋に収めなければならない。ごみ山の前で体育座りをしてため息をつく日々。

 

人間は役割を決めて生きるものです。そのほうが楽なので。あの人は自分の友人で、あの人は自分の後輩で、あの人は悪役で、というふうに。人間関係を一度リセットしたいと思うのは、その役柄をフラッシュしたいからに他なりません。いや、他ならないというのは言い過ぎかもしれないですけど、紛れもなく一因ではあります。

役割というのは人間関係を単純化します。役割が複雑な人間関係を言語化してしまうので、一定の枠内へとその関係を押し込めてしまい、ずれが生じます。自分とその人の関係と全く同相のそれなど存在しないのに、判で押したような関係であると言葉のほうから認めさせてしまうことになります。

それがとても嫌で、一旦人間関係を切断して再構築をしたいと常々思っているのです。一度萌芽した意識というのは、時間をかけないと変化しません。たとえば気を使わせている状況は嫌だし、過剰な特別性を以てコミュニティに迎え入れられるのも嫌だし、かといって軽蔑されるのもまあ腹が立ちます(それはまあ、誰だってそうでしょうけど)。人間関係の根底にある意識の部分、そのリセットをして、つまり片付けをして、別の意識の付加をしたい。そうやって再生された人間関係というのはきっと今のそれと違っていて、だからこそ価値がある。違っていたいと思います。切断のち再構築、それが私の今の望みです。

 

片付けているべきものを散らかしっぱなしにしていて、切りたいものを切れずにいます。実存のない除去作業が最終的にどこまで進むかはわかりませんが、やり残したことのないようにしたいものですね。たとえば暇乞いとか、私は面倒がってやらないのでしょうが、すべからくやるべきだよな、とも思っています。