架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

20211031

世界の解像度は人それぞれであるという前提を身体で理解することは難しい。理性ではそれをわかっているが、どうやら本能や直感はそれを認めたくないらしい。

SNSで一方的にフォローをしている物書きの人が、示し合わせたわけでもなく自分と同じ音楽を聴いているらしいとき、たとえばそれはリーガルリリーのことだが、これが交差点なのだと身体が理解する。その瞬間にあるのは喜びとか安堵とか原始的な感情ではなく、たとえばそれは「これが正しいということなのだ」という直感である。

私がリーガルリリーを聴くときの風圧(これは比喩である)と、それ以外の人とが感じるそれとは乖離があるのだな、と常々感じる。これは一例であり、リーガルリリーに限らない。きっと同じものが見えているらしいくだんの人と私の視界とが類似しているかどうかはさておくとしても、正しいという言葉が目の前に突きつけられるようなあの感覚は共通しているはずなのだ、と思う。

たくさんの人と一致していることは多様でないことである。それでも、世界の解像度が人と違うのだな、と思うことは少なくない。リーガルリリーの風圧、私が彼女たちの曲を聴くときに感じるえも言われぬ衝動、あれが感じられないのだとしたら、それはきっともったいない。

20といくつにしてようやく、芸術に対する明確な視点を持った人間はそう多くないのだなということに気づく。気づいていなかったから、当然のものとしてそうしていた態度が必ずしも有されていないことにも気づけなかった。

 

正しいことが好きだ。正しいとは何だ? 正しさは、議論するまでもなく、事物に触れた時に感じる正しさによって規定されている。誰にだって一度や二度あるだろう。人間の創作性の発露に触れたときに、ああこれは正しいのだと直感した経験、あれが正しさの再起的な定義だ。

一つか二つ正しいものを見つければ、正しさの付与がそのうち波及する。そうやって人間は補集合的に規定されていく。他者への関心は、巡り巡って正しさへの関心に変貌する。

答えはそこにあるのだと思っている。あなたが正しいと思うものは何か? 答えてほしい。答えてくれ。