架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

お掃除

 

定期的に吐き出さないとやってられんのかもしれない。まあ酒を飲むべきなんだが、最近は本能が酒を忌避しているのを感じていて、おかげで家にアルコールが一滴もない。メチルならある。失明はしたくない。

自分より無神経な人間と深く関わると碌なことがないのでやめましょうという行動指針のことを考えている。関わらないのが難しいのだから詮無い。でもこっちが傷付けられたとて向こうは無傷なのだという非対称性の構図に気づいてしまうたびに悲しくなる。悲しみは怒りになる。怒りは口に出さないので胃袋の底に溜まっていく。それが腐敗して死にたさになっている。こいつをどうすればいい?

深く関わると、碌なことがない、だから、やめましょう。これはとても難しいな。私には難しい。自分の外側まで律することができるんなら苦労はしない。どう考えてもただ押し黙っていることが一番の解法で、でもやりすぎると爆発してしまうので。蓄積、爆発、そんなのを繰り返してたら一面が焼け野原、そうなることはわかってるのに懲りずに毎度毎度新しい人間関係を構築することに余念がない、余念がないは言い過ぎにしても、機会があれば作ってしまう。やめたら?

だいたい無神経ってなんだ。自分自身よくわかってない。アレルギー、拒絶反応の因子を相手に求めているときの対象にそんな名前をつけているだけではないのか。でも無神経とやらは確かに瘡蓋を切り刻んでおり、鉄の味だなあと止血もせずに眺めていたりする。

けどそんなことで逐一無神経認定を乱射するせいで、浅くしか関われない人間関係ばかり作っている。人間関係には素材がある。どれも紙粘土な気がする。美術展みたいだし、葬式って企画展みたいだなと面白くすらない冗談を思ってみた。

助けもしないのはそれら、一方的に傷付けられた恨みつらみの連鎖反応で、助けもしないのだから助けられたくもない。だからシニカルなのではなくて、経験を畳み込んでいるだけです。なぜか当たりが強いと感じた際、それは、なぜか、の部分を消化できていないからに他ならない。救いようがないのだから救うポーズも取りたくない。救うポーズを取る人間の、善意という巨悪のことをあいにく私は知っている。

勝手に生きてればよくて、それは別に吐き捨てているわけでもなくて全身の全神経に染み付いている。勝手に生きてればいいんじゃない、なんとなくの好意とか友愛とかはまあ全部嘘、そういうことにしておけばお互いちょっとずつ得をする社会契約でしかない。でもそんな嘘を本気にしてるんならちょっと考え直したほうが良くないか、と思うことがあります。というか全体的に考え直した方が良くないか。誰宛でもないが。

こうなってくると、自分より無神経な人間と深く関わると碌なことがないのでやめましょうなんてのも間違いで、まずもって深く関わることが不可能なのだし、自分より無神経な人間と深く関わった気になるのは害です、健康を害します、そんなのでいいのではなかろうか、でもこう書いてしまうとちょっと陳腐だな。

無神経だという言葉を流し読みして鼻で笑ってるのが無神経なんだって

セーフティがたくさんあって社会はまことによくできているなと思いました。そのためにあの子は生まれてきたんだろうね、とも思っている。足したら1になる、よくできている。怒りみたいなものを腹の底にためて今日も生きる。意味ねー

でも多分、自分が思ってる以上に怒ってるんだろうな、誰も得しないし本当にやめてほしい。