架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

20220317

 

 

正しくありたいが正しくありたいと考えるその哲学の正しさの証明が枠外を超えていてついぞ不可能、みたいなケースがあまりに多くて困ってしまう。お酒を飲んでいて酔っているので話半分に聞いてほしい。

自分が苦しむことへの想像が及ばなくて苦しむ、けれどそういった自己言及なしに前へは進めないと思う。想像というのは案外難しいのだということを数年前に知った。気づいた。どうしてそんなことをするのだろう、と考えてみて、まさか想像が及んでいないとは思わなかった。けれどそういう痛みへの鈍感さはまさしく自分が自分に仕掛ける攻撃と他ならないのだな、それに気づいたのはつい数ヶ月前のことである。鈍感にせよ敏感にせよ結局のところ振れ幅がないのがいけない。使い分けられるに越したことはないよな。それができない人間のことを想像して苦しむ、それは善ではないと思うし、鈍感であるべき瞬間に鈍感でいられるような醜悪さこそが私をどこかへ連れていってくれる。

前提無しに生きてはいけない、なら前提を探すことこそが自己の承認である。その議論は良いが、前進こそが存在理由の証明ならその多寡や程度はわりあいどうでもよく、結局それが安直な自己弁護に繋がっていないか? 体を動かさないことが悪であることと、体を動かすことが無条件の善であること、これらは同値ではない。こういう勘違いはよく起こる。

存在理由なんてつまらないものを追い求めてばかりいるから本質から逸脱してしまう。本当はもっと単純であるべきで、無条件の肯定か無条件の否定かの二種類しかない。本当は後者に身を委ねたいが、避けられない二律背反により条件をつけるという自己破産手続きを踏まねばならぬ。しかし本当は存在するに足る理由などない。他者への貢献が存在理由の要因なら、一人ずついらない人間を消していって最終的に全員消える。自明すぎる。無条件の肯定はとても嫌いだ。それを認めることが文明の近代化の第一歩であるが、それとは別に信条というものを持つべきであると思う。

結局取り残されるのはそうでありそうでないという二重写しのアクロバットな解釈でしかないが、それをある意味正しいなと思えてきたりもするものである。本能に漸近する夜、私はその矛盾を正しいと思うし美しいとも思う。矛盾は現象であって禁忌ではない。

軽蔑と敬意はやはり共存するし、愛と憎しみは同時に湧出するし、死ねともお願いだから生きてくれとも思う。渦の中にいる。誰かが移動するのでなく、自分が移動をしている、その移動を天動説的に解釈してしまうから狂う。振動をしている。惰走をしている。この苦悩は通過儀礼か? わからん。どうなんだろうね。