架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

20210910

不幸の星のもとに生まれたと思い込み、それに相応しい立ち回りをし続けてきたが、漠然と消え去りたい感情は就活の終わりとともに霧散した。先行きの見えない生活に恐れをなしていただけだった。かくして普通の星に生まれた凡人となった。

凡人であることは幸せだと思う。凡人となってからいっそう強く実感する。生きたいように生きるというわけではないけれども、普通のことに笑い普通のことに怒り、大勢の人間と同じ感性をする、そういう平凡さはあればあるだけ得をする。常軌を逸していることは何にせよ異常である。異常という言葉に棘を感じるのは、単にそれが悪だからである。異常性が輝くとき、得をするのは灯りを掌中に収めた周囲の人間だけである。

異常であったものたちを一つずつ壊している。あるいは、棘を一本ずつ抜く。過剰に生き急いでいた過去を思い返して、今の自分にその強迫観念は必要ないのだと改めて思い直す。無理に生きようとする必要はない。頭の中にあった感情の吹き溜まりが更地になる。昔の自分が嫌っていた人間みたいだ。自分が嫌っていた人種は、侵される恐れのない安全の中に住む人間であったのだと気づく。

異常性を壊すのには手順がない。ただ瓦解するのを待つだけだ。何かをすること自体が異常性の創出につながる。理性は本能に制限されている。自由とは本能という基盤のもとで成立する。何もしなければ、そのうち本能がどうにかする。そういう生活が順繰りに進んでいき、やがて異常性が溶けてなくなる。

 

無数の選択肢があるとき、まず必要なものとそうでないものとに分割する悪癖があった。必要なものは最大限時間をかけ、そうでないものは目もくれない。かつての自分はそう生きなければならなかった。今はその必要がない。癖だけが残り、本能でなく理性の奴隷として生きる日々はまだ続いている。その必要がないのなら、気の向くままに直感が選んだものたちだけに囲まれて過ごせばよい。

他人に迷惑をかけずに生きる必要がある。生まれたときから脳裏に貼り付いている。方位磁針や標識のような親切な存在などではなく、強制的に私をその方向へ向きなおさせる糸である。人として正しく生きることを考え、自分が抱えたいものではなく抱えなければ正しくないことを選んで生きてきている。アップデートに繋がることは、それは巡り巡って他人のためになるのだから、それだけを目的に足が動く。でも、もうその必要はない。必要がないことを知っていながらもその癖が抜けない。今になって本能の赴くままに生活を送ってもいいと言われても足は動かない。

他者が常に精神の中に存在していた。理性の糸を断ち切るということは、他者との繋がりを考え直すことである。世界には自分だけが存在していればよく、ある程度の節度をもって精神上の幸福を最大化すること、それを無邪気に信奉する姿勢。私にはそれができない。一切他人に迷惑がかからないという条件のもと、自分が幸福になる未来とそうでない未来を選べるのだとして、前者を選ぶことを即答できない。自分を構成するのが他人の補集合であるという事実があり、自己を形成するのは完全に他者であるという解釈をし、つまり他者への効果こそが自己の存在する意味そのものであると結論づけ、あらゆる外部から切り離された自分の幸福とはおそらく不幸であると断定し、それを主張する理性と本能とが争う。

ただ何の根拠もなく自分のために生きることを正しいこととみなす思想、それを拒む理性の存在。それらを一つずつ壊して日々を送っている。壊し続けたその先に何があるのかはどうだっていい、けれどそのうちにかつての自分の生き方をも忘れてしまいそうなので、このようにここに記載しておく。不必要でむしろ有害な理性を破壊し尽くすことができるのか、それとも根絶することが叶わずに長く後遺症に苦しむことになるのか。まあ、どちらでもいい。