架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

nimrod

 

 

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西洋美術のことを考えはじめたのとPeople In The Boxを聴き始めたのと小説のニムロッドを読んだのとに直接の相関はなく、すなわち時期の偶然が半分、もう半分は交絡ということです。

今からニムロッドの話をします。読みたい人は読んでください。

 

 

 

 

ブリューゲルについて 

 

 「好きな画家を5人挙げてくださいと言われれば、ブリューゲルをまず挙げるだろう」と書いたのはいいのですが、そもそも「好きな画家を5人挙げてください」という質問の"解ってなさ"にガッカリしそうですね。まあ、ともかく、私はブリューゲルが好きです。これは「実地に赴いてブリューゲルの作品を見てスタンダール症候群に罹患したから」みたいな素敵な出会いがあったわけではありません。絵画は理屈として色々知っているだけなので、本質的な絵画愛を獲得するに至っていません、そもそも。ブリューゲルについても、西洋の絵画にしては遊び心があるからなんとなく気に入っている、といった薄い理由だけで好きな画家の中に挙げているのです。遊び心のくだり、同様の理由でヒエロニムス・ボスも気に入っています。

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いつかの記事で引用した「子供の遊戯」です。はてさて、西洋の絵画と聞けば宗教的なものが多いようなイメージを思い浮かべますが、これはその点に関して頗るつきの問題児ですね。そもそもどうして西洋画と聞いて宗教的なものを思い浮かべるかといえば、これは気になった人は調べてもらえればよいのですが、言語の通じない他民族や識字のできていない低階級の人に対して宗教を視覚的に説明するための試みだったから、とここでは記しておきます。そこから"なんやかんや"があって絵画は宗教的なモチーフから解放されたわけですが、やはり宗教的なモチーフ、それからもう一つ、貴族階級の人物の肖像というジャンルの作品はどうにもつまらんわけですよね。後者については、これは絵画がビジネスという大きな流れの中に現在も組み込まれている理由そのものです。この辺りの話題はこの記事のレゾンデートルから逸してしまう故に割愛します。ともかく、昔は「宗教的な作品」「貴族の肖像画」の2つが主流だったところに、ある時点からこのような絵画が持ち込まれた、あるいはローカルな空間からそのような流れが発生したというわけなのです。このあたりは、モナリザがどうして名作と呼ばれているかに関係してきます。ここまでを真面目に読んでいるみなさんはそもそも頭がいいと思うので、皆まで言わなくとも理解できると思います。

 どうしてブリューゲルを持ち込んだかに話題を戻しましょう。この記事はニムロッドについて解説するための記事ですが、そもそもニムロッドとはなんぞや? という方のために、意味から解説していきたいと考え、ついでに美術の話でもするかと思い立ってここまでをひといきに縷縷綴ったというわけです。

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ウィーン美術史美術館所蔵、ブリューゲル作の『バベルの塔』。左下で偉そうぶっているのがニムロッドです。ニムロッドはつまり、バベルの塔の建築を指示した偉い人の名です。同時に、人生を賭けたプロジェクトを神によってご破算にされてしまった哀れな男でもあります。バベルの塔の逸話を知らない人はいないと思うのでここでは説明しません。さて、ここまでが西洋美術とニムロッドとの関わりです。次の章では、ニムロッド - People In The Boxに触れようと思います。

 

 

ニムロッド - People In The Box

 

『ニムロッド』を著して芥川賞を受賞した上田岳弘は、当該のバンドのこの曲が好きで、このタイトルで小説を書きたかった、とインタビューで語っています。曲のリンクは記事冒頭に貼付しているので、興味がある人は聞いてみてください。

意気揚々とこの章を立ち上げたのはいいのですが、歌詞の意味が全くわからない(正確には、自分なりに解釈することはできても、正解にたどり着いたことへの根拠が乏しい故に、それは理解できていないことに同値である)し、本人たちは歌詞について語らないため、つまり、書くことがありません。まあ、後述する小説『ニムロッド』を読むよりも曲を聞く方がずっと対価が少なく済むので、聞けばよいと思います。聞いてくださいとは言わないです。別に聞いて欲しいとは思っていないため。

曲はなんか、かっこいいと思っていつも聴いています。これ以上言語化すると嘘になっちゃうので黙っておきます。

 

 

『ニムロッド』 - 上田岳弘

 

 

メインディッシュ。2019年1月、第160回芥川賞受賞作です。さて今回は、あまり作品の内容には踏み込まず、自分なりに思ったことを論考していこうかなといった次第です。

仮想通貨。従来の中央集権的な通貨制度と一線を隠しているのは、それらが分散集権的であるという性質だとしばしば語られます。どのような仕組みで仮想通貨が通貨として成立しているのかというと、作中で語られていることには、価値のないものを誰かが価値のあるものとして信じることで、実際にそこに価値が付与される。我々はこの文言を見て、そんなケースもあるのか、と思ったりしますが、実際のところはこれって珍しくもなんともないのです。現実の物質的な通貨を例に挙げてみましょう。紙幣って特殊な加工が施された紙切れでしかないけれど、我々はその紙に1000円や10000円といった価値を信じているから、そしてその価値への信念を全員が共有していることを同様に信じているから、実際に価値があるものとして使うことができるのです。

類似のものとして、いくつか卑近な例を挙げてみましょうか。ブランドもののバッグや服は、そもそもブランドに価値があると全員が信じているからこそ身につけることに価値が生じています。これはあまりにも当たり前のことで、誰も知らないようなブランドを身につけていることに付随的価値がないことから直ちに導かれる真理です。そもそも、誰も知らないような会社のものをブランドと呼ぶこと自体矛盾を孕んでいる気がします。(ブランドなんぞに興味がない、機能美こそ肝要であるとそっぽを向いている層も一定数いますが、構造としては貨幣となんら変わらないということを認識するべきだよな、と思います。)

エポニムという概念をご存知でしょうか。「ギロチン」や「サックス」みたいに、ものの名前が人名に由来している言葉のことです。エポニミー効果というのがありまして、これは「自分の名前がつくかもしれないという期待のためになんらかの技術的革新や発展が促進される効果」のことです*1。これも大多数が価値があると信じることにより実際的価値が生じている例ですね。何かしらに名を残すことに価値を感じることは熟慮するに虚しい行為ですが、大多数の人間はそのことに価値があると信じて疑わないため、結果として無から有が生じることになります。

仮想通貨、貨幣、エポニム。それらに共通する性質を一般に敷衍させてみると、ひとまず以下の命題が発現することになります。つまり、任意の価値は複数意思の信念の実在確認により生じる。これはどうでしょうか? 偽な気がしますね。たとえば、物理的な対象は信じると信じないとにかかわらず価値がある。五感や本能に近い領域については、人間の信念は価値に直結するとも限りません。(尤も、感覚器官による認識の作用を信念に基づいていると見做せばまた話は変わってきそうですけどね。)では、物理的でないものを範囲に規定するとすれば?

私は価値について、広くそのような性質を有していると考えます。冒頭で出した美術についての話題をここで再提示するのですが、たとえば美術における絵画のビジネスは、誰かが高額で絵画を買い取ると、それに従って大衆の信念の更新が発生し、正方向のフィードバックが生じます。もう少しわかりやすく言うと、ある絵画が10億円で競り落とされたとき、人々はその絵画に10億円の価値を認めるようになり、結果としてその絵画の価値は実際に10億円以上になる。美術作品の価値は、誰かがその価値を信じることで正方向に拡大していくものです。これは構図として、上述の命題に同値です。ある絵画が10億円で競り落とされるためには誰かがその絵画に10億円の価値があることを信じている必要があり、そしてその信念が感染することによって、事実として10億円の価値が生じる。これは、全員の信念が事実的価値を生む構図そのものです。

価値とはなんであろうか、という質問に対し、これらの考察を経て、断片的にでも推察がなされるのではないでしょうか? すなわち、抽象的概念としての価値は物理的媒体に元から付随しているものではなく、価値があるといった信念を抱く人数によって後発的に結びつくものである。何をそんな当たり前のことを、と思う人もいるかもしれませんが、これは決して当然の事実ではないです。というのも、第一に、価値は初めから物質に付随していて、人間がそれをどう解釈するかは人次第であり、我々が価値と呼んでいるものは本来的な意味で価値ではない、といった立場を考慮することができるからです。第二に、価値と価値を認める信念の数とを結びつける考察は直感に反しているからです。

前者については、つまり「誰も手をつけていないまっさらな対象に価値はあるのか?」という問題に帰着されます。私の主張する命題はこの問いに「価値がない」と回答するもので、カウンターサイドは「価値がある」と主張するものです。私は、仮に価値があるのだとしても、その価値は実在することができないのではないか、と考えています。後者はもっともな糾弾で、この理屈でいくと、たとえば本なら、純文学より大衆文学の方が価値があるという主張を暗々裏に認めてしまうことになります。これは、大衆という語彙に着目した上での考察です。この問題を解決するにあたっては、信念に対してデジタルでなく連続的な尺度を導入しなければならないのですが、個人的にはあまり重要でないことだと思えるため、これ以上は論じないことにします。

さて、ここまで論じてきことはつまり、価値とは他者の信念によって初めて規定されるということです。これを述べることによってようやく『ニムロッド』に話を戻せます。この作品の扱うテーマの一つに、人間が完璧に近づくということはどういうことか、というものがあります。"完全な存在"への志向を象徴するシーンはいくつかあるのですが、配慮のため伏せておきます。作中で描かれている"完璧への志向"は、思うに、人間としての価値の喪失に結びついています。つまり、人として完全であればあるほど、人間としての価値を失ってしまう。完璧な存在とはある意味神のようなもので、ここでようやく作品名『ニムロッド』が大きく関わってくることになります。先述した通りニムロッドはバベルの塔の建設を支持した人物で、旧約聖書中で初めて神に反抗した人物とされます。ニムロッドという言葉が象徴するのは、神への漸近です。作品の解釈として同時に神への漸近は人としての価値の喪失であるというのを述べています。また、完璧への志向は、これは作中では技術の進歩やデジタル化、情報化社会として語られています。結果的に浮かび上がってくるのは、次に示す命題ではないでしょうか。

"行き過ぎた技術革新により、将来的に人類は人間としての価値を喪失する"

一人一人が完璧であるが故に、かえって価値が見出されなくなってしまう。この結論の説得力は、この記事で書いたすべてのことを以てしても不足しているように思います。が、読んでいただければ、確かにそうだな、ぐらいは思っていただけるのではないでしょうか。配慮により情報を伏せているので、どうしてもこのような形式になってしまうのです。

 

 

自分なりのニムロッド

 

 

完璧に近づこうとして罰せられたニムロッドは、しかし、反抗の象徴であると思っています。そもそも「ニムロッド」という言葉自体、ヘブライ語か何語かで「我々は反抗する」という意味らしいので。私が今後何かにつけてニムロッドを引用するとき、上述の考察を経てのニムロッドである、ということを諒解していただければ、それ以上のことはないです。背後には、旧約聖書に始まり、ブリューゲルの絵画、あるいは西洋美術史、とあるバンドの曲、そして一冊の小説があります。価値とは後天的に獲得されるものであり、また、完全体への勾配がいつか人間としての価値の喪失を導く。この2つの考察は、上に記述したすべてのことに基づいています。

そういうわけです。以上。

 

 

 

*1:ここは要出典状態なので、あまり鵜呑みにしすぎないでください