架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

2021/07/31

 

 

能ある鷹はなんとやらなんて言いますが、韜晦癖のある人間が優秀であるとは誰も言ってないんですね、とまあこういう具合の言葉遊びのくだらなさに飽きてきた雰囲気が出ていますね。誰が、というのは自分ではなく、そうですね、時代とかじゃないですか。

自分なりの軸を追い求めて水中に潜る(これは比喩です)儀式を繰り返してみて、見えてくるのは醜悪な自分の下心と同じく醜悪な他人の粗です。ここでいう下心とは一般的なイメージからすこし逸れている気がします。

精算と清算が同じくセイサンなのが好きです。過去を生産することはレシートを吐き出す行為に似ているのかもしれない。誰だって一度はそういうことを考えたことがあるでしょう? 青酸はセイサンと呼びますが、流石にそこまでの深刻さと苛烈さをもって生活を解釈したことはないです。とまあこういう具合の言葉遊びのくだらなさにも飽きてきました。いい歳だしな。それなりに本を読んでいると、くだらないものが正しくくだらないと思えるようになってくるものです。

近頃は時勢のこともあって、透明で純真な精神で、闘う人間は畢竟美しいのだなぁと考えています。そればかり考えているので、かえって透明ではないのかもしれないですね。下心の正体はおそらくこの結論に関連しているのです。正しいとは何か? それは悪ではないことではなく、軸、背骨、大動脈、そういった言葉で表現されるソリッドな対象の有無にあるのだと考えています。軸はあるか? あればそれは美しいことだと思います。なければそれは醜く、正しくないことなのだと思います。特に訳もなくという枕詞、あれは小説に登場してはいけないものですが、自分はそのように現実世界を小説側に鏡映しにしたうえで俯瞰している、おそらく。これは不思議なことです。アンリアルをリアルで解釈している。あるいは、リアルをアンリアルで再構築しようとしている。現実では無為というものが街中のあちらこちらに散らばっていますが、それは正しい世界ではあってはいけないものです。しかしそれはそれで正しくないようですね。それならどのように生きれば良いのでしょうかね?

呼吸をしています。こんな支離滅裂な文章を書いているうちにも時間が進んでいきます。気づいていない人はいないと思いますが、呼吸はするものではなくさせられるものです。では生活は? 思考停止した結果としての希死念慮もチープでキッチュでカジュアルな自殺願望も今は薄らいでしまっていますが、そういう嘘みたいな情動が絶えず脈を打ち続けている、そういうアンバランスな状態のほうがかえって生きている感じがする。呼吸はさせられるものです。生活は送るものではなく、送られるものです。日は暮らすものではなく、勝手に暮れる。生存の義務から解放されたときにはじめて、生活の義務のありがたさがわかったりもする。馬鹿馬鹿しい。

そういう具合です。誰だってこういうこと、一度は考えたことがあると思います。そうでないなら多分しあわせな人なのだと思います。いいですね。自明の理として、幸福に勝る幸福などないのですから。

 

 

 

日記

毎日を書き下ろさなければならないと強く意識するものの、書き下ろさなければならないという使命感を抱かずにはいられないような日々を過ごしていたいだけなのだという虚栄に気が付く。数え切れないほど繰り返している。繰り返しては忘れ、忘れては思い出し、また繰り返す。やがて忘れずに覚えているようになる。

地元が舞台の小説を読んでいた。地元が舞台だったからというのではなく、その作家の本をよく読むからである。小説の中で地元でちょっとしたぼや騒ぎが起こり(ぼや騒ぎは話の根幹と深くは関わってこない)、翌日すなわち今日、たまたま火事が起こっていたらしいことを遠目で目視した。ここのところ、奇妙なことがよく起こる。

現実と自分との間に半透明の膜のような隔たりを感じる。現実に嘘をつかれている。生憎嘘が好きなので秋霜烈日というわけにはいかず、嘘のような現実をしばし楽しんでいる。二つ隣の駐車場に設置されていた自動販売機のうちの一つが、片方だけすっかりなくなっている。自動販売機のあったはずのところに四角い痕が残っていたりもしそうなものだが、そこの地面だけ消しゴムで削ったように真っ白になっている。一台だけになった自動販売機は相変わらずその場に屹立し、低い振動音を響かせている。

隣家が二匹目の犬を飼い始めた。朝8時から鳴き始めるのでうるさい。耳障りというわけではないが、犬は一匹が鳴き始めたらそこらじゅうの飼い犬が共鳴するように吠え始めるので収拾がつかなくなる。一匹や二匹ならよいものの、十数匹がひっきりなしに鳴き始めるので御免被りたい。隣家側のベランダから向こうの庭を見下ろしてみれば、全く同じ犬が二匹こちらを見ている。同じ犬種(プードル)、同じ体躯(中くらい)、同じ色(黒)、同じ毛並み(くせ毛)、同じ声、まるで区別がつかない。間違えて増やしてしまったのだと思う。世の中、足し算やら掛け算やらは簡単なくせに引き算や割り算は難しいのだからどうしようもない。ほとほと呆れる。

不思議なことがこれだけ立て続けに起こるのだから、鴉が人語を解してもことさら驚くまい。と期待して屋上に上がる。鴉が数匹アルミのサッシに掴まっている。彼らは夜になってサッシをカタカタと左右に移動し、音を立て、そので目を醒させてくる。防鳥グッズとして怪しげに光る回転する棒を買って設置してみたものの、ただ蛾を引き寄せるだけで鴉には効果がなかった。屋上のドアを開くと鴉が飛び立つ羽音がした。目で追ってみる。東の空に黒い影が2、3ほど揺らめいている。風に煽られているとも、風を操っているともつかない。そのままずっと東の方へ遠ざかっていき、見えなくなった。

現実はひとりでに保たれているものではなく、各人の努力によって何とか合理性が維持されているものなのかもしれない。ちょうど文明が細分化されすぎて、その細分それぞれを司る誰かがいなければ立ち行かなくなってしまったことと同じである。歯向かうと現実は揺らぐ。勝手に揺らいで、街だと思っていた物体の集合体が色鮮やかな蜃気楼になる。今でこそ砂漠に立っているのは想像であるが、例えばまるで存在ごと消し去られようとして中途半端に霧消してしまった自動販売機がごとく、いつ想像が現実を凌駕するともつかない。現実と想像とをつなぐ架線は、案外身の回りにあるのかもしれない。合理と非合理の道すがらで何を思うか? 行くも戻るも自由、それならばと想像の坂道へと足を踏み入れてみるような、その態度こそがいわゆる境地というものである。

そこに存在するかしないか、触れられるか触れられないか、逃げないか逃げるか、そこに正しさという軸を持ち込む不条理さや傲岸さに舌打ちをする。ふと爆発してしまわないだろうかと、蜃気楼の逆襲を夢に見て毎日を書き下ろしている。

お酒飲んだ

これお酒に酔ってるから言うんですけど、音楽好きを自称する人間って大体蓄積がないから説得力が皆無ですよね。音楽たくさん聴いてそれで音楽通自称できるならそんな簡単なことはないですよ。というか音がどうこうってプリミティブなフェーズで音楽を語るのって、それはもう音楽好きでもなんでもなく単に音が好きなだけじゃないんです?

音と音楽は違いますよ。前者は鼓膜を介して信号へと変換される言うなれば波形の表出で、後者は文化です。文化というのは"そのもの"ではなく対象同士の関係性によって浮き彫りにされる価値です。こう書くと難しく聞こえるかもしれませんが、例えば「この楽曲はこれを受けて作られた」みたいなバックグラウンドから、受け取り手が違った観点から対象への価値を見出すことがあるでしょう。文化、ないし音楽とはそういう営為によって構築・破壊・再構築され続けてここにあるものですよね(これを否定されたらもうおしまいですがね)。

音楽に対してみなさん不勉強すぎません? 音楽に対してというか、文化全般に対して。音楽は(消費される前提で作られたものでなければ)一種の芸術として解釈されるべきで、それなのに芸術としてではなく例えば食べ物のように「削られて消費されるもの」として解釈されることが一般化している現代に一種の馬鹿馬鹿しさを感じます。聞くだけでいいわけないでしょ。聞くことそのものなんて誰でもできます。極論、赤ちゃんとか犬とかでも音楽を聞くことはできるんだし。聞くことじゃなく、知能を総動員して鑑賞することが大事なんじゃないです? それなのに背景や背景を理解するための学習をせずに音楽を浪費している。いや、その態度自体は別に間違っていません。音楽とは一部の人間にとって消費されるものとして受け取られてしまっています。けれど、それで音楽通自称するのやめてもらっていいですか? もう一度言いますけど、ただたくさん聞いてるってだけで音楽好きとか片腹痛いし気持ち悪いです。自称しなきゃいいじゃないですか。いち消費者としての自覚を持ってください。あと、自称せずともそのアクションを起こしていないだけでも、それは音楽と真摯に向き合っていないのと同じですからね。蟻の巣を興味深そうに覗いて、最終的に水を注いで反応を楽しんでいる子供、私にはあれと同じに見えます。比喩とかではなく、態度としての稚拙さです。

別に誰が、とかではないです。誰のことを想像しての文章でもありません。ただ不意に虫酸が走った、それだけです。

 

上の文章にも説得力がねえな。ないなら言わなきゃいいんですけど、まあそんな夜もある。まあとにかく、俺の地雷はこんなところにある。これを読んだ人、不快な思いさせてすまん。許してくれ、そんで触れないでくれ。

結局リーガルリリーのどこがいいのか

 

 

 

みなさんロックは好きですか。

みょんの曲に『君はロックを聴かない』とありますが、みんなロックを聞かないことこの上ない。どうして? たぶん先天的な性質によるものです。私がロックを聞くのは音楽を芸術として見ているからです。みなさんはどうですか?

 

今から多田李衣菜みたいにロックロックと連呼するんですけど、許してください。こいつはいわタイプなんだなとでも思ってくれたら。

ロックにはいくつかの定義がありますが、私はそれらの共通部分としてロックを俯瞰しております。ロックはそもそもどこかの国の労働者階級の反骨心が音楽という形式になって立ち現れたものです。なので、反骨心があったり、何らかの主張が含まれていることが必要条件。これは十分条件ではないですね。ヒップホップとか入っちゃいますから。

次いで、ビートルズストーンズの血を継いでいる音楽形式。これが第二の必要条件。裏を返せば、どちらかが成立していない限り本当はロックと呼べないわけです。

しかし最近は後者の条件だけを満たしたものがロックと呼ばれがちです。大多数の人は音しか聞いてないんです。ちょっと前に気づいたことなんですが、歌詞ってふつうの人は読まないんですね……。てっきり全員が読んでいるものだと思っていたので。どうりで噛み合わないわけだ。

 

後者の条件が、ロックかFAKEかの判別条件になっています。いくつか例をあげてみようかな。ボカロとかね。高校時代から烏屋茶房をずっと聞いていますが、彼の音楽には主張がこもっているのでいいです。気になる人は調べてみてください。『文学少女インセイン』とか『ダンスダンスデカダンス』とか聞いてみてね。

主張がない音楽、あるいは主張がしょうもない音楽は、形態がどれだけロックであったとしてもそれはロックじゃないです。断定口調で書いたのは、ロックの定義についてたくさん調べた結果です。これに関しては、逆張らずに認めた方がよい。それでよく勘違いされがちだけど、私が好きな音楽はロック風ではなくロックです。たまさかこの文章を読んでいる人はそう認識してくださいね。

で、もう一度自問自答して欲しいんですが、ロックが好きですか? それとも、ロック風が好きですか?

 

推しバンドはロックなバンドです。ロック風じゃないです。例えばマカロニえんぴつはロックじゃねえサウンドをよく作りますけど、言ってることがなんだかこうロックなんですよねえ。

クリープハイプとか好例じゃないです? 『ハチミツと風呂場』とか『ラブホテル』とかで勘違いされがちですが、彼らはひたすら愛について歌います。で、詞がロックなんですよねぇ。ボーカルの尾崎世界観は小説を描き始めて、芥川賞の候補にまでなりましたが、やっぱりな、という気持ちです。クリープハイプの音楽は文学だから。自分の抱いた感情と世間の姿勢とが一致していることになんとなく嬉しさがあります。

では今日はリーガルリリーの話をします。リーガルリリーは何かというと、私の推しバンドですね。めっちゃ好きなSSを描いてる人がいるんですが、その人が新譜の発売日0時にリーガルリリーを聞いててとても嬉しくなりました。「正解した!」みたいな。

リッケンバッカー』を聞いたことのない人は多くないと思うので飛ばすんですが、そこから先の話。

 

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この曲で完全に沼に落ちた。ロック風が好きな人にはいまいち通じないと思うんだけど、ペキペキしたある意味チープなサウンドからこの展開と文学的な歌詞。

 

明日を

みうしなわないでいるよ。

 

きみの体温と吐く息を

全部忘れても

 

プラットホーム

ああ 揺れ行くサイレン 

 

ぼくは、とべない

飛べない。

 

わかりますかこの繊細と大胆の掛け算の美学が。いい歌詞ってこういうことなんですよ。「きみの体温と吐く息を全部忘れても明日を見失わないでいる。ぼくは飛べない」ですぜ。考えれば考えるほどなんと儚くて悲しい方向への勾配であることか。こんなに悲しいリリックがベッキベキのロックサウンドに乗ってやってきて、台風みたいに疾走して、言いようのない虚脱感と未来へのちっぽけな光を残していく。これができるからすごいんですリーガルリリーは。

 

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『ジョニーは戦争に行った』って映画があるんですが、たぶんこれにインスピレーションを受けています。

 

ころしたよ、ころしたよ

空と街の交差した空中から

1つ1つ1つと降ってさあ僕らは

僕らは帰ろうか 

 

戦争に行って人を殺さざるを得なくなった芸術家のお話ですが、個人的にポイントなのは決して反戦の歌ではないことです。真っ白な空間に事実がぽつんと落ちているだけ、「殺したよ、さあ帰ろうか」、戦争の無惨さを伝えるのでもなく事実だけをニュースキャスターのようにポップな歌に乗せて歌い切ります。私は反戦の歌があまり好きではないのですが、こういう姿勢はなんだか"正しい"ような気がするんですよね。

ロック斯くあるべし。戦争ダメ絶対なんて小学生でも書ける歌詞だしな。

 

 

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家のシケモクをとっておいてもね

君に会えることはないのね 

 シケモクはタバコのやっすいやつって認識で大丈夫です。

 

待ち合わせは人目を気にして

別れ際に落とし物をして

落とし物をして会う口実を作るメソッド。

 

酒気帯びで地球をベッドにしたい。

笑っていたい、君に会いたいなリリー。

これでサビの1フレーズです。いや歌詞。わかる人もわからない人もいると思うんですが、これすごい歌詞だと思うんです。センスと感性が爆発している。

酒気帯びで地球をベッドにしたい」

たぶん別れた恋人(or人)についての歌なんですが、失ってしまったものに一生囚われつつ、お酒を飲んで笑っていたいなと願うあの投げやりな浮遊感を「酒気帯びで地球をベッドにしたい」で表現するの天才の領域ですよ。「お酒を飲んだらなんだか楽しいような、それでも苦しいな、会いたいな」を「酒気帯び〜以下略」に変換できる人いますか? とんでもねえ感性と言語化能力だと思うのです。

「シケモクをとっておいても君は来ない」からの「君に会いたいなリリー」。その切なさが曲の最後に溢れてしまって、「リリー、リリー、リリー、」と何かに縋るように歌い続けるのです。シケモクをとっておいても会えることはないのにね。文学だなぁ。

 

 

 

ということで以上です。芸術を鑑賞するためには素養が必要なのである程度は仕方ないと思いますが、"音"でなく"音楽"を楽しみたいなら是非とも歌詞に意識を向けてみてください。まあでも、リーガルリリーを良いと思えるだけの感性とか素養とか、ないものは仕方ないと思います。でもその代わり、自分がいいと思ったものを言語化することはどうか忘れないでください。あと、みんなも推しバンドの話をしてね。

 

 

東京現代美術館について

 

 

記事として何かを発信する以上、内省とか日記的なものよりは、事実に基づいたものを書きたいと思うのです。なぜなら、私の言葉には価値がないと思うので。と書きましたが、つまりたとえば、病んでる人を見てもあまり楽しくないですよねえ。病むことにかけては右に出る者がいないという自負がありますが、同時に病んでいる様子を他人に見せることで何か安全な世界に身をおきたいという深層心理的欲求を満たしてきたようにも思うのです。つまり逃避です。予防線、弥縫策、あてがう言葉は何でもよく、ただ結果として醜悪な自分がそこにいる。そういう人間です。

自分の話ばかりしても仕方がないですね。話をしましょうか。

 

少し前に東京に行っていて、何のためにと言われると、美術館に行きました。美術といっても私は日本画にすこぶる興味がなく、逆に西洋画からの流れを汲む芸術が好きです。これは芸術に触れる前に知っていた様々な断片的知識がひとつの流れとしてつながったことへの一種の法悦に起因します。少し前までは西洋画にお熱だったのですが、今はやっぱり現代美術です。というわけなので、東京現代美術館に行きました。

企画展のほうを見に行ったのですが、常設展があまりに豪華でびっくりしました。びっくりしたとしか表現できないぐらい驚いた。メンバーがね。かの有名なウォーホルのマリリンモンロー、クラインの青、ツァイ・グオチャンの爆薬アート、ゲルハルト・リヒターラウシェンバーグ……。極め付けには、本で散々読んだ、リキテンスタインの『ヘアリボンの少女』!

美術へのエクスタシー、それは断片と断片とが繋がる瞬間に稲妻のように走るものだと思うのです。どうしてヤン・ファン・エイクが称賛されたか。どうしてモナリザが名画なのか。どうしてベラスケスが画家の中の画家なのか。どうしてフェルメールといえば『真珠の首飾りの少女』なのか。それらの理由が絵画という固形物となって目の前に現れること、断片的だった情報が接続される瞬間の法悦、これこそが芸術を食する本質だと思います。

というわけで、みなさん、東京都現代美術館に行きましょう。清澄白河が最寄駅です。

ところで、表記は「東京都現代美術館」であってるんですかね?間違ってたらすみません。

 

 

 

ブルーピリオド10巻は5月21日らしいです。美術の入り口としてちょうどいい漫画ですよね。少しでも美術に興味のある人はRPGみたく私に話しかけてください。無限に話ができます。

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例えば底抜けに明るいものがかえって底のない穴に落ちるような虚脱感を与えうるように、絶望を連れてくるのはいつも希望である。みなさん気分はどうですか? 私は"虚(うろ)"です。虚ほど確かに実在している実感を与えてくるものはないのに、虚言だの虚数だの、虚という字にはどうにも「実在しない」というニュアンスが含まれているようですね。何かがあるのと何もないという状態が不可侵的に存在しているのだとしたら、この世の99%は虚です。世俗的なニュアンスでのシュレディンガーです。わかりますか?

絶望を連れてくるのは希望というのは引用ですが、底抜けに明るい云々は今日思ったことです。そういえば、本当に精神にダメージを与える景色というのは、夜ではなく太陽の上がった昼間だったりしませんか? 雲ひとつない快晴、じりじりと照っている太陽、その想像で私が感じることは絶望です。止まない雨はないとかよく言っている人いますけど、晴れてなお依然として何も解決していないことに気づいたとき、私は絶望をします。その実なんにも望んでなどいないのだから、本当は絶望なんて言葉を当てがっちゃいけないんでしょうけど。

まあ、そんだけです。もっと明るい話をしたいですね。というか絶望ってなんだ。状態を表すはずの言葉であるお前がどうして感情の代弁者となっているんだ? まあ、別になんだっていいか。

 

 

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西洋美術のことを考えはじめたのとPeople In The Boxを聴き始めたのと小説のニムロッドを読んだのとに直接の相関はなく、すなわち時期の偶然が半分、もう半分は交絡ということです。

今からニムロッドの話をします。読みたい人は読んでください。

 

 

 

 

ブリューゲルについて 

 

 「好きな画家を5人挙げてくださいと言われれば、ブリューゲルをまず挙げるだろう」と書いたのはいいのですが、そもそも「好きな画家を5人挙げてください」という質問の"解ってなさ"にガッカリしそうですね。まあ、ともかく、私はブリューゲルが好きです。これは「実地に赴いてブリューゲルの作品を見てスタンダール症候群に罹患したから」みたいな素敵な出会いがあったわけではありません。絵画は理屈として色々知っているだけなので、本質的な絵画愛を獲得するに至っていません、そもそも。ブリューゲルについても、西洋の絵画にしては遊び心があるからなんとなく気に入っている、といった薄い理由だけで好きな画家の中に挙げているのです。遊び心のくだり、同様の理由でヒエロニムス・ボスも気に入っています。

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いつかの記事で引用した「子供の遊戯」です。はてさて、西洋の絵画と聞けば宗教的なものが多いようなイメージを思い浮かべますが、これはその点に関して頗るつきの問題児ですね。そもそもどうして西洋画と聞いて宗教的なものを思い浮かべるかといえば、これは気になった人は調べてもらえればよいのですが、言語の通じない他民族や識字のできていない低階級の人に対して宗教を視覚的に説明するための試みだったから、とここでは記しておきます。そこから"なんやかんや"があって絵画は宗教的なモチーフから解放されたわけですが、やはり宗教的なモチーフ、それからもう一つ、貴族階級の人物の肖像というジャンルの作品はどうにもつまらんわけですよね。後者については、これは絵画がビジネスという大きな流れの中に現在も組み込まれている理由そのものです。この辺りの話題はこの記事のレゾンデートルから逸してしまう故に割愛します。ともかく、昔は「宗教的な作品」「貴族の肖像画」の2つが主流だったところに、ある時点からこのような絵画が持ち込まれた、あるいはローカルな空間からそのような流れが発生したというわけなのです。このあたりは、モナリザがどうして名作と呼ばれているかに関係してきます。ここまでを真面目に読んでいるみなさんはそもそも頭がいいと思うので、皆まで言わなくとも理解できると思います。

 どうしてブリューゲルを持ち込んだかに話題を戻しましょう。この記事はニムロッドについて解説するための記事ですが、そもそもニムロッドとはなんぞや? という方のために、意味から解説していきたいと考え、ついでに美術の話でもするかと思い立ってここまでをひといきに縷縷綴ったというわけです。

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ウィーン美術史美術館所蔵、ブリューゲル作の『バベルの塔』。左下で偉そうぶっているのがニムロッドです。ニムロッドはつまり、バベルの塔の建築を指示した偉い人の名です。同時に、人生を賭けたプロジェクトを神によってご破算にされてしまった哀れな男でもあります。バベルの塔の逸話を知らない人はいないと思うのでここでは説明しません。さて、ここまでが西洋美術とニムロッドとの関わりです。次の章では、ニムロッド - People In The Boxに触れようと思います。

 

 

ニムロッド - People In The Box

 

『ニムロッド』を著して芥川賞を受賞した上田岳弘は、当該のバンドのこの曲が好きで、このタイトルで小説を書きたかった、とインタビューで語っています。曲のリンクは記事冒頭に貼付しているので、興味がある人は聞いてみてください。

意気揚々とこの章を立ち上げたのはいいのですが、歌詞の意味が全くわからない(正確には、自分なりに解釈することはできても、正解にたどり着いたことへの根拠が乏しい故に、それは理解できていないことに同値である)し、本人たちは歌詞について語らないため、つまり、書くことがありません。まあ、後述する小説『ニムロッド』を読むよりも曲を聞く方がずっと対価が少なく済むので、聞けばよいと思います。聞いてくださいとは言わないです。別に聞いて欲しいとは思っていないため。

曲はなんか、かっこいいと思っていつも聴いています。これ以上言語化すると嘘になっちゃうので黙っておきます。

 

 

『ニムロッド』 - 上田岳弘

 

 

メインディッシュ。2019年1月、第160回芥川賞受賞作です。さて今回は、あまり作品の内容には踏み込まず、自分なりに思ったことを論考していこうかなといった次第です。

仮想通貨。従来の中央集権的な通貨制度と一線を隠しているのは、それらが分散集権的であるという性質だとしばしば語られます。どのような仕組みで仮想通貨が通貨として成立しているのかというと、作中で語られていることには、価値のないものを誰かが価値のあるものとして信じることで、実際にそこに価値が付与される。我々はこの文言を見て、そんなケースもあるのか、と思ったりしますが、実際のところはこれって珍しくもなんともないのです。現実の物質的な通貨を例に挙げてみましょう。紙幣って特殊な加工が施された紙切れでしかないけれど、我々はその紙に1000円や10000円といった価値を信じているから、そしてその価値への信念を全員が共有していることを同様に信じているから、実際に価値があるものとして使うことができるのです。

類似のものとして、いくつか卑近な例を挙げてみましょうか。ブランドもののバッグや服は、そもそもブランドに価値があると全員が信じているからこそ身につけることに価値が生じています。これはあまりにも当たり前のことで、誰も知らないようなブランドを身につけていることに付随的価値がないことから直ちに導かれる真理です。そもそも、誰も知らないような会社のものをブランドと呼ぶこと自体矛盾を孕んでいる気がします。(ブランドなんぞに興味がない、機能美こそ肝要であるとそっぽを向いている層も一定数いますが、構造としては貨幣となんら変わらないということを認識するべきだよな、と思います。)

エポニムという概念をご存知でしょうか。「ギロチン」や「サックス」みたいに、ものの名前が人名に由来している言葉のことです。エポニミー効果というのがありまして、これは「自分の名前がつくかもしれないという期待のためになんらかの技術的革新や発展が促進される効果」のことです*1。これも大多数が価値があると信じることにより実際的価値が生じている例ですね。何かしらに名を残すことに価値を感じることは熟慮するに虚しい行為ですが、大多数の人間はそのことに価値があると信じて疑わないため、結果として無から有が生じることになります。

仮想通貨、貨幣、エポニム。それらに共通する性質を一般に敷衍させてみると、ひとまず以下の命題が発現することになります。つまり、任意の価値は複数意思の信念の実在確認により生じる。これはどうでしょうか? 偽な気がしますね。たとえば、物理的な対象は信じると信じないとにかかわらず価値がある。五感や本能に近い領域については、人間の信念は価値に直結するとも限りません。(尤も、感覚器官による認識の作用を信念に基づいていると見做せばまた話は変わってきそうですけどね。)では、物理的でないものを範囲に規定するとすれば?

私は価値について、広くそのような性質を有していると考えます。冒頭で出した美術についての話題をここで再提示するのですが、たとえば美術における絵画のビジネスは、誰かが高額で絵画を買い取ると、それに従って大衆の信念の更新が発生し、正方向のフィードバックが生じます。もう少しわかりやすく言うと、ある絵画が10億円で競り落とされたとき、人々はその絵画に10億円の価値を認めるようになり、結果としてその絵画の価値は実際に10億円以上になる。美術作品の価値は、誰かがその価値を信じることで正方向に拡大していくものです。これは構図として、上述の命題に同値です。ある絵画が10億円で競り落とされるためには誰かがその絵画に10億円の価値があることを信じている必要があり、そしてその信念が感染することによって、事実として10億円の価値が生じる。これは、全員の信念が事実的価値を生む構図そのものです。

価値とはなんであろうか、という質問に対し、これらの考察を経て、断片的にでも推察がなされるのではないでしょうか? すなわち、抽象的概念としての価値は物理的媒体に元から付随しているものではなく、価値があるといった信念を抱く人数によって後発的に結びつくものである。何をそんな当たり前のことを、と思う人もいるかもしれませんが、これは決して当然の事実ではないです。というのも、第一に、価値は初めから物質に付随していて、人間がそれをどう解釈するかは人次第であり、我々が価値と呼んでいるものは本来的な意味で価値ではない、といった立場を考慮することができるからです。第二に、価値と価値を認める信念の数とを結びつける考察は直感に反しているからです。

前者については、つまり「誰も手をつけていないまっさらな対象に価値はあるのか?」という問題に帰着されます。私の主張する命題はこの問いに「価値がない」と回答するもので、カウンターサイドは「価値がある」と主張するものです。私は、仮に価値があるのだとしても、その価値は実在することができないのではないか、と考えています。後者はもっともな糾弾で、この理屈でいくと、たとえば本なら、純文学より大衆文学の方が価値があるという主張を暗々裏に認めてしまうことになります。これは、大衆という語彙に着目した上での考察です。この問題を解決するにあたっては、信念に対してデジタルでなく連続的な尺度を導入しなければならないのですが、個人的にはあまり重要でないことだと思えるため、これ以上は論じないことにします。

さて、ここまで論じてきことはつまり、価値とは他者の信念によって初めて規定されるということです。これを述べることによってようやく『ニムロッド』に話を戻せます。この作品の扱うテーマの一つに、人間が完璧に近づくということはどういうことか、というものがあります。"完全な存在"への志向を象徴するシーンはいくつかあるのですが、配慮のため伏せておきます。作中で描かれている"完璧への志向"は、思うに、人間としての価値の喪失に結びついています。つまり、人として完全であればあるほど、人間としての価値を失ってしまう。完璧な存在とはある意味神のようなもので、ここでようやく作品名『ニムロッド』が大きく関わってくることになります。先述した通りニムロッドはバベルの塔の建設を支持した人物で、旧約聖書中で初めて神に反抗した人物とされます。ニムロッドという言葉が象徴するのは、神への漸近です。作品の解釈として同時に神への漸近は人としての価値の喪失であるというのを述べています。また、完璧への志向は、これは作中では技術の進歩やデジタル化、情報化社会として語られています。結果的に浮かび上がってくるのは、次に示す命題ではないでしょうか。

"行き過ぎた技術革新により、将来的に人類は人間としての価値を喪失する"

一人一人が完璧であるが故に、かえって価値が見出されなくなってしまう。この結論の説得力は、この記事で書いたすべてのことを以てしても不足しているように思います。が、読んでいただければ、確かにそうだな、ぐらいは思っていただけるのではないでしょうか。配慮により情報を伏せているので、どうしてもこのような形式になってしまうのです。

 

 

自分なりのニムロッド

 

 

完璧に近づこうとして罰せられたニムロッドは、しかし、反抗の象徴であると思っています。そもそも「ニムロッド」という言葉自体、ヘブライ語か何語かで「我々は反抗する」という意味らしいので。私が今後何かにつけてニムロッドを引用するとき、上述の考察を経てのニムロッドである、ということを諒解していただければ、それ以上のことはないです。背後には、旧約聖書に始まり、ブリューゲルの絵画、あるいは西洋美術史、とあるバンドの曲、そして一冊の小説があります。価値とは後天的に獲得されるものであり、また、完全体への勾配がいつか人間としての価値の喪失を導く。この2つの考察は、上に記述したすべてのことに基づいています。

そういうわけです。以上。

 

 

 

*1:ここは要出典状態なので、あまり鵜呑みにしすぎないでください