架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

日記

毎日を書き下ろさなければならないと強く意識するものの、書き下ろさなければならないという使命感を抱かずにはいられないような日々を過ごしていたいだけなのだという虚栄に気が付く。数え切れないほど繰り返している。繰り返しては忘れ、忘れては思い出し、また繰り返す。やがて忘れずに覚えているようになる。

地元が舞台の小説を読んでいた。地元が舞台だったからというのではなく、その作家の本をよく読むからである。小説の中で地元でちょっとしたぼや騒ぎが起こり(ぼや騒ぎは話の根幹と深くは関わってこない)、翌日すなわち今日、たまたま火事が起こっていたらしいことを遠目で目視した。ここのところ、奇妙なことがよく起こる。

現実と自分との間に半透明の膜のような隔たりを感じる。現実に嘘をつかれている。生憎嘘が好きなので秋霜烈日というわけにはいかず、嘘のような現実をしばし楽しんでいる。二つ隣の駐車場に設置されていた自動販売機のうちの一つが、片方だけすっかりなくなっている。自動販売機のあったはずのところに四角い痕が残っていたりもしそうなものだが、そこの地面だけ消しゴムで削ったように真っ白になっている。一台だけになった自動販売機は相変わらずその場に屹立し、低い振動音を響かせている。

隣家が二匹目の犬を飼い始めた。朝8時から鳴き始めるのでうるさい。耳障りというわけではないが、犬は一匹が鳴き始めたらそこらじゅうの飼い犬が共鳴するように吠え始めるので収拾がつかなくなる。一匹や二匹ならよいものの、十数匹がひっきりなしに鳴き始めるので御免被りたい。隣家側のベランダから向こうの庭を見下ろしてみれば、全く同じ犬が二匹こちらを見ている。同じ犬種(プードル)、同じ体躯(中くらい)、同じ色(黒)、同じ毛並み(くせ毛)、同じ声、まるで区別がつかない。間違えて増やしてしまったのだと思う。世の中、足し算やら掛け算やらは簡単なくせに引き算や割り算は難しいのだからどうしようもない。ほとほと呆れる。

不思議なことがこれだけ立て続けに起こるのだから、鴉が人語を解してもことさら驚くまい。と期待して屋上に上がる。鴉が数匹アルミのサッシに掴まっている。彼らは夜になってサッシをカタカタと左右に移動し、音を立て、そので目を醒させてくる。防鳥グッズとして怪しげに光る回転する棒を買って設置してみたものの、ただ蛾を引き寄せるだけで鴉には効果がなかった。屋上のドアを開くと鴉が飛び立つ羽音がした。目で追ってみる。東の空に黒い影が2、3ほど揺らめいている。風に煽られているとも、風を操っているともつかない。そのままずっと東の方へ遠ざかっていき、見えなくなった。

現実はひとりでに保たれているものではなく、各人の努力によって何とか合理性が維持されているものなのかもしれない。ちょうど文明が細分化されすぎて、その細分それぞれを司る誰かがいなければ立ち行かなくなってしまったことと同じである。歯向かうと現実は揺らぐ。勝手に揺らいで、街だと思っていた物体の集合体が色鮮やかな蜃気楼になる。今でこそ砂漠に立っているのは想像であるが、例えばまるで存在ごと消し去られようとして中途半端に霧消してしまった自動販売機がごとく、いつ想像が現実を凌駕するともつかない。現実と想像とをつなぐ架線は、案外身の回りにあるのかもしれない。合理と非合理の道すがらで何を思うか? 行くも戻るも自由、それならばと想像の坂道へと足を踏み入れてみるような、その態度こそがいわゆる境地というものである。

そこに存在するかしないか、触れられるか触れられないか、逃げないか逃げるか、そこに正しさという軸を持ち込む不条理さや傲岸さに舌打ちをする。ふと爆発してしまわないだろうかと、蜃気楼の逆襲を夢に見て毎日を書き下ろしている。