架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

11/17

 

こんにちは

なんだかこう、フィクションに手を伸ばすことが多義性を帯びてきて久しいですが、どう思いますか。

文化に手を出す行為は人によって意味が違うのだと思います。自分にとってはそれは救いを求める行為に他ならなくて、まあ有り体に言ってしまえば辛くてしんどいときに現実逃避のためにそれをする。そう考えると、今の自分があんまり新しいフィクションに手を出したがらないのは理にかなっている気がします。今はいわゆる"寛解"にあたる時期なためです。

フィクションは誰かの救いになるためにそこにあると言うと過言な気がします。でも、それは生み出す側の意識としてよりクリティカルヒットな話題だと思うのです。そこにあって欲しいと意識的に生み出されたものはそう多くはなくて、大抵は、脳内にあったごちゃついたイメージが意図せず外界に上映されてしまう。だから、誰かに奉仕するための創作は得てして人工的で不自然なものとして目に映ります。正しいのは常に"漏洩"であって、例えば世間的なウケを狙って作られたものたちを、価値が低いものとしてみなします。あるいは、それぞれの人工物性を嗅ぎ分けて左右に割り振ります。自分の話です。振り分けで信じられるものは自分の感性だけなので、あんまり信用なりません。

少し話が跳躍してしまったけれど、そんなことを話したかったのではなく、ええと、多義性についてですね。意識的にものを観たり読んだりするのがどうも苦手なようで、まあ人間だから動機がないと動けないのはそれはそうなんですが、そこに必要なのは偶然の力であったり、あるいは救いを求めなければならない状況であったりします。それ以外の動機でものに触れるとき、それらにはどうしても"仕事"や"修行"みたいな意味合いが付帯してしまいます。純粋な興味があるとき、突き詰めて考えると結局のところ偶然の力を利用しているに他ならないわけだし。

ただ読みたくなったから、という動機で新しいものに触れるのは矛盾しています。知らないのだから。あるいはそれは、偶然の力と置き換えることもできましょう。他に考えられるのは、「自分はこの人の作品のファンです」という流れぐらいですかね。けれどそれは、続き物の続きを読むのと同じ力が働いているだけで、全く新しいものの開拓と捉えるにしては力不足でしょう。

つまり何が言いたいのかというと、無から生まれた新しいフィクション、それらが人に好まれるようになるまでのプロセスはけっこう不安定で、そこにはたいてい理性を超えた直感であったり、妙な偶然を愛していたいというあどけない感情であったり、仕方のなさ、正義感、度の過ぎた性格の良さ、義務感、承認欲求、あるいは絶望、そういった心理の力が働いているのだなあ、ということです。

多義性があるな。

皆さんもそれぞれ、自分が好きなあれはどれにあたるのかを考えてみてはどうでしょうか。まあ大抵は偶然のせいだと思いますが。

 

人から勧められた作品を別にいいやと流しがちなのは、上の心理のどれにも当たらないからなんですね。そういう場合の動機の候補で考えられるのは大抵"義務感"な気もするし、どうしてもその人にそれを見せたかったら義務感を植え付ければいいのかもしれないな。つまり、奉仕です。その人間のために自分の時間を溶かしに溶かして、「そこまでしてもらったのなら流石になあ」と思わせる、これが最善手なんですかね。ああ、だから逆におざなりな推薦には逆張りたくなるのか。確かにな。

 

正直、"救い"があったりしません? 宗教は架空の存在に全身を預けることですが、頼みにすべきなのはいつだって"ない"ものなんだな。何かが救いであったこと、それは認めた方がいいです。創作してる人達は自らの手で生み出されたものたちを救いとして思っていそうだし、受け手もなんにせよ救い的な側面を認めていると思います。そうでないものたちは、例えばその辺に生えている木と同じで、日々を過ごしたメルクマールとしてしか捉えられないはずです。どれだけそれを認めたくなくとも、救われたのは事実なんですね。だから、豊かな文化性や創作物を楽しめる教養なんて概念ほんとうは実在しなくて、人は水揚げされた俎上の鯉と同じなんです。そう思います。

これはどういう結論なのかというと、思いのほか実用性があるんです、ということです。それだけです。

 

20211031

世界の解像度は人それぞれであるという前提を身体で理解することは難しい。理性ではそれをわかっているが、どうやら本能や直感はそれを認めたくないらしい。

SNSで一方的にフォローをしている物書きの人が、示し合わせたわけでもなく自分と同じ音楽を聴いているらしいとき、たとえばそれはリーガルリリーのことだが、これが交差点なのだと身体が理解する。その瞬間にあるのは喜びとか安堵とか原始的な感情ではなく、たとえばそれは「これが正しいということなのだ」という直感である。

私がリーガルリリーを聴くときの風圧(これは比喩である)と、それ以外の人とが感じるそれとは乖離があるのだな、と常々感じる。これは一例であり、リーガルリリーに限らない。きっと同じものが見えているらしいくだんの人と私の視界とが類似しているかどうかはさておくとしても、正しいという言葉が目の前に突きつけられるようなあの感覚は共通しているはずなのだ、と思う。

たくさんの人と一致していることは多様でないことである。それでも、世界の解像度が人と違うのだな、と思うことは少なくない。リーガルリリーの風圧、私が彼女たちの曲を聴くときに感じるえも言われぬ衝動、あれが感じられないのだとしたら、それはきっともったいない。

20といくつにしてようやく、芸術に対する明確な視点を持った人間はそう多くないのだなということに気づく。気づいていなかったから、当然のものとしてそうしていた態度が必ずしも有されていないことにも気づけなかった。

 

正しいことが好きだ。正しいとは何だ? 正しさは、議論するまでもなく、事物に触れた時に感じる正しさによって規定されている。誰にだって一度や二度あるだろう。人間の創作性の発露に触れたときに、ああこれは正しいのだと直感した経験、あれが正しさの再起的な定義だ。

一つか二つ正しいものを見つければ、正しさの付与がそのうち波及する。そうやって人間は補集合的に規定されていく。他者への関心は、巡り巡って正しさへの関心に変貌する。

答えはそこにあるのだと思っている。あなたが正しいと思うものは何か? 答えてほしい。答えてくれ。

'アンリの小旅行' 歌詞

 

 

 

サイレンで目を覚ます 渦を巻くブレーンフォグ

夕立を無視した今ベランダは禁忌肢だ

冷蔵庫の夜泣きに 半解凍の狐火

現実と非現実を行ったり来たり

割れたグラス片付けずに前衛的オブジェ化

青色に白抜きの左折可が強か

15時からバイトか これも無視でいいか

見下ろす街の陰から熱帯魚の群れ 誘(いざな)われ

 

光の消えた 眠る高架下

スポイトで吸って鈍色のコーヒー

溶ける水平線に舞う蛍、

誰かが打ち上げた紫

煙る街灯に 拗ねる信号機

ポケットに利己主義つめこんで

明日(あす)の鍵を 探した 

今だけは揺らぎを許して

 

雨にそっと溶けるような

忘れられた誰かの歌を歌う

浅く眠る街の憧憬に

届きそうな気がしたんだ

行く宛のない片道切符握って

自由落下 夜の小旅行

 

曖昧な日々の境界線

アスファルトに描いて

 

明日の鍵なんて どこにもないなって

告げるような剥き出しの我爱你

それでいいんだって もう好きにすればって

聞こえた気がした

空(から)の感情に 浅いアイロニー

気の抜けきった五日前のサイダー

どうせ毎日に 意味などないけど

追いかけてたいんだ

 

眩んだ視界なら目を閉じればいい

暗闇なら前に進まなければいい

未来はグレー 白も黒もない

だからどこにも行けない これが正体

どうしたって未来は捕まえられやしない

午前三時の深海に漂っていたい

報われない自分にただ酔っていたい

だからそんな過去のことは どうか、

 

穴の空いた傘みたいな夜にだって縋ってたいんだ

目をつむって息を殺して

空っぽな気がしたって 掛け違いの毎日を繋いで

それでも意味はあるって叫びたくて

 

遥か遠く先の未来で この今を思い出したいだけ

空を仰いで息を吸い込んで、

どこにだって行けるはずだ

行く宛もなく彷徨うことこそが僕にとって呼吸だから

 

夜が光に塗りつぶされてしまう前に

たったひとつの答えを、それを探している

 

 

 

20210910

不幸の星のもとに生まれたと思い込み、それに相応しい立ち回りをし続けてきたが、漠然と消え去りたい感情は就活の終わりとともに霧散した。先行きの見えない生活に恐れをなしていただけだった。かくして普通の星に生まれた凡人となった。

凡人であることは幸せだと思う。凡人となってからいっそう強く実感する。生きたいように生きるというわけではないけれども、普通のことに笑い普通のことに怒り、大勢の人間と同じ感性をする、そういう平凡さはあればあるだけ得をする。常軌を逸していることは何にせよ異常である。異常という言葉に棘を感じるのは、単にそれが悪だからである。異常性が輝くとき、得をするのは灯りを掌中に収めた周囲の人間だけである。

異常であったものたちを一つずつ壊している。あるいは、棘を一本ずつ抜く。過剰に生き急いでいた過去を思い返して、今の自分にその強迫観念は必要ないのだと改めて思い直す。無理に生きようとする必要はない。頭の中にあった感情の吹き溜まりが更地になる。昔の自分が嫌っていた人間みたいだ。自分が嫌っていた人種は、侵される恐れのない安全の中に住む人間であったのだと気づく。

異常性を壊すのには手順がない。ただ瓦解するのを待つだけだ。何かをすること自体が異常性の創出につながる。理性は本能に制限されている。自由とは本能という基盤のもとで成立する。何もしなければ、そのうち本能がどうにかする。そういう生活が順繰りに進んでいき、やがて異常性が溶けてなくなる。

 

無数の選択肢があるとき、まず必要なものとそうでないものとに分割する悪癖があった。必要なものは最大限時間をかけ、そうでないものは目もくれない。かつての自分はそう生きなければならなかった。今はその必要がない。癖だけが残り、本能でなく理性の奴隷として生きる日々はまだ続いている。その必要がないのなら、気の向くままに直感が選んだものたちだけに囲まれて過ごせばよい。

他人に迷惑をかけずに生きる必要がある。生まれたときから脳裏に貼り付いている。方位磁針や標識のような親切な存在などではなく、強制的に私をその方向へ向きなおさせる糸である。人として正しく生きることを考え、自分が抱えたいものではなく抱えなければ正しくないことを選んで生きてきている。アップデートに繋がることは、それは巡り巡って他人のためになるのだから、それだけを目的に足が動く。でも、もうその必要はない。必要がないことを知っていながらもその癖が抜けない。今になって本能の赴くままに生活を送ってもいいと言われても足は動かない。

他者が常に精神の中に存在していた。理性の糸を断ち切るということは、他者との繋がりを考え直すことである。世界には自分だけが存在していればよく、ある程度の節度をもって精神上の幸福を最大化すること、それを無邪気に信奉する姿勢。私にはそれができない。一切他人に迷惑がかからないという条件のもと、自分が幸福になる未来とそうでない未来を選べるのだとして、前者を選ぶことを即答できない。自分を構成するのが他人の補集合であるという事実があり、自己を形成するのは完全に他者であるという解釈をし、つまり他者への効果こそが自己の存在する意味そのものであると結論づけ、あらゆる外部から切り離された自分の幸福とはおそらく不幸であると断定し、それを主張する理性と本能とが争う。

ただ何の根拠もなく自分のために生きることを正しいこととみなす思想、それを拒む理性の存在。それらを一つずつ壊して日々を送っている。壊し続けたその先に何があるのかはどうだっていい、けれどそのうちにかつての自分の生き方をも忘れてしまいそうなので、このようにここに記載しておく。不必要でむしろ有害な理性を破壊し尽くすことができるのか、それとも根絶することが叶わずに長く後遺症に苦しむことになるのか。まあ、どちらでもいい。

テオ・ヤンセン展

 

行ってきたので、簡潔にまとめます。

 

- アートと聞くと鑑賞者に鑑賞者としての態度を要求する作品をイメージしがちなものだが、思うにストランドビーストはその真逆である。オランダの海抜が低すぎるために国土が消滅の危機に瀕し続けているという問題の解決として、生命体に防波堤を作らせるというアイデアが端緒になっている。アイデア自体の独創性はさておき問題設定自体は非常に平凡なものである(荒唐無稽とも言えるアイデアを形にしてしまうバイタリティに圧倒されたことを記憶している)。具体的な設定に具体的な解決法を探るアプローチは相当にコンクリートで、それゆえに鑑賞者は必然的に「これはアートなのか? それともデザインなのか?」という疑問に付き纏われることになる。

それぞれを支持する根拠が展示内容に記載されているのは抜け目がない。アートの自由性(定義不可能性)、アウラの場所性はストランドビーストを現代アートの檻の中に飼い慣らす主張の一例であると思う。興味深いのは、ヤンセンが大学から離れ、画家として活動し始めたという経歴を持っていることである。ヤンセン展はストランドビーストを身体的に体感できる空間として開かれているが、ヤンセンの所謂生き様をストランドビーストを通じて視覚的に理解する場、あるいは抽象的な「アートとデザインの差はどこにあるのか?」という問題を今一度見つめ直す場としても機能するように設計されているのではないか?

- ヤンセンのバイタリティについての補足。彼は問題の解決策の奇怪性を無視して(あるいは簡単に乗り越えてしまって)、生命体を次々とデザインしてゆく。機能の進歩に生命の進化のアナロジーを付与し、まるで神様のように振る舞うのは創作と似ている。あるいは、物語を創ることそのものであると言うこともできる。突然変異的なのは、彼がその空想を現実へと還元してしまった点である。彼は脚本を書き劇を演じさせたのではなく、劇中の出来事を実際に行動に起こしてしまった。この特異性こそが、ストランドビーストを目にしたときに抱く言いようのない浮遊感の正体であると考えた。是非はさておき、頭の中に留めておくべき事実であるかもしれない。

 

 

概ねこんなことを考えていたと思います。

 

2021/07/31

 

 

能ある鷹はなんとやらなんて言いますが、韜晦癖のある人間が優秀であるとは誰も言ってないんですね、とまあこういう具合の言葉遊びのくだらなさに飽きてきた雰囲気が出ていますね。誰が、というのは自分ではなく、そうですね、時代とかじゃないですか。

自分なりの軸を追い求めて水中に潜る(これは比喩です)儀式を繰り返してみて、見えてくるのは醜悪な自分の下心と同じく醜悪な他人の粗です。ここでいう下心とは一般的なイメージからすこし逸れている気がします。

精算と清算が同じくセイサンなのが好きです。過去を生産することはレシートを吐き出す行為に似ているのかもしれない。誰だって一度はそういうことを考えたことがあるでしょう? 青酸はセイサンと呼びますが、流石にそこまでの深刻さと苛烈さをもって生活を解釈したことはないです。とまあこういう具合の言葉遊びのくだらなさにも飽きてきました。いい歳だしな。それなりに本を読んでいると、くだらないものが正しくくだらないと思えるようになってくるものです。

近頃は時勢のこともあって、透明で純真な精神で、闘う人間は畢竟美しいのだなぁと考えています。そればかり考えているので、かえって透明ではないのかもしれないですね。下心の正体はおそらくこの結論に関連しているのです。正しいとは何か? それは悪ではないことではなく、軸、背骨、大動脈、そういった言葉で表現されるソリッドな対象の有無にあるのだと考えています。軸はあるか? あればそれは美しいことだと思います。なければそれは醜く、正しくないことなのだと思います。特に訳もなくという枕詞、あれは小説に登場してはいけないものですが、自分はそのように現実世界を小説側に鏡映しにしたうえで俯瞰している、おそらく。これは不思議なことです。アンリアルをリアルで解釈している。あるいは、リアルをアンリアルで再構築しようとしている。現実では無為というものが街中のあちらこちらに散らばっていますが、それは正しい世界ではあってはいけないものです。しかしそれはそれで正しくないようですね。それならどのように生きれば良いのでしょうかね?

呼吸をしています。こんな支離滅裂な文章を書いているうちにも時間が進んでいきます。気づいていない人はいないと思いますが、呼吸はするものではなくさせられるものです。では生活は? 思考停止した結果としての希死念慮もチープでキッチュでカジュアルな自殺願望も今は薄らいでしまっていますが、そういう嘘みたいな情動が絶えず脈を打ち続けている、そういうアンバランスな状態のほうがかえって生きている感じがする。呼吸はさせられるものです。生活は送るものではなく、送られるものです。日は暮らすものではなく、勝手に暮れる。生存の義務から解放されたときにはじめて、生活の義務のありがたさがわかったりもする。馬鹿馬鹿しい。

そういう具合です。誰だってこういうこと、一度は考えたことがあると思います。そうでないなら多分しあわせな人なのだと思います。いいですね。自明の理として、幸福に勝る幸福などないのですから。

 

 

 

日記

毎日を書き下ろさなければならないと強く意識するものの、書き下ろさなければならないという使命感を抱かずにはいられないような日々を過ごしていたいだけなのだという虚栄に気が付く。数え切れないほど繰り返している。繰り返しては忘れ、忘れては思い出し、また繰り返す。やがて忘れずに覚えているようになる。

地元が舞台の小説を読んでいた。地元が舞台だったからというのではなく、その作家の本をよく読むからである。小説の中で地元でちょっとしたぼや騒ぎが起こり(ぼや騒ぎは話の根幹と深くは関わってこない)、翌日すなわち今日、たまたま火事が起こっていたらしいことを遠目で目視した。ここのところ、奇妙なことがよく起こる。

現実と自分との間に半透明の膜のような隔たりを感じる。現実に嘘をつかれている。生憎嘘が好きなので秋霜烈日というわけにはいかず、嘘のような現実をしばし楽しんでいる。二つ隣の駐車場に設置されていた自動販売機のうちの一つが、片方だけすっかりなくなっている。自動販売機のあったはずのところに四角い痕が残っていたりもしそうなものだが、そこの地面だけ消しゴムで削ったように真っ白になっている。一台だけになった自動販売機は相変わらずその場に屹立し、低い振動音を響かせている。

隣家が二匹目の犬を飼い始めた。朝8時から鳴き始めるのでうるさい。耳障りというわけではないが、犬は一匹が鳴き始めたらそこらじゅうの飼い犬が共鳴するように吠え始めるので収拾がつかなくなる。一匹や二匹ならよいものの、十数匹がひっきりなしに鳴き始めるので御免被りたい。隣家側のベランダから向こうの庭を見下ろしてみれば、全く同じ犬が二匹こちらを見ている。同じ犬種(プードル)、同じ体躯(中くらい)、同じ色(黒)、同じ毛並み(くせ毛)、同じ声、まるで区別がつかない。間違えて増やしてしまったのだと思う。世の中、足し算やら掛け算やらは簡単なくせに引き算や割り算は難しいのだからどうしようもない。ほとほと呆れる。

不思議なことがこれだけ立て続けに起こるのだから、鴉が人語を解してもことさら驚くまい。と期待して屋上に上がる。鴉が数匹アルミのサッシに掴まっている。彼らは夜になってサッシをカタカタと左右に移動し、音を立て、そので目を醒させてくる。防鳥グッズとして怪しげに光る回転する棒を買って設置してみたものの、ただ蛾を引き寄せるだけで鴉には効果がなかった。屋上のドアを開くと鴉が飛び立つ羽音がした。目で追ってみる。東の空に黒い影が2、3ほど揺らめいている。風に煽られているとも、風を操っているともつかない。そのままずっと東の方へ遠ざかっていき、見えなくなった。

現実はひとりでに保たれているものではなく、各人の努力によって何とか合理性が維持されているものなのかもしれない。ちょうど文明が細分化されすぎて、その細分それぞれを司る誰かがいなければ立ち行かなくなってしまったことと同じである。歯向かうと現実は揺らぐ。勝手に揺らいで、街だと思っていた物体の集合体が色鮮やかな蜃気楼になる。今でこそ砂漠に立っているのは想像であるが、例えばまるで存在ごと消し去られようとして中途半端に霧消してしまった自動販売機がごとく、いつ想像が現実を凌駕するともつかない。現実と想像とをつなぐ架線は、案外身の回りにあるのかもしれない。合理と非合理の道すがらで何を思うか? 行くも戻るも自由、それならばと想像の坂道へと足を踏み入れてみるような、その態度こそがいわゆる境地というものである。

そこに存在するかしないか、触れられるか触れられないか、逃げないか逃げるか、そこに正しさという軸を持ち込む不条理さや傲岸さに舌打ちをする。ふと爆発してしまわないだろうかと、蜃気楼の逆襲を夢に見て毎日を書き下ろしている。