架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

お酒飲んだ

これお酒に酔ってるから言うんですけど、音楽好きを自称する人間って大体蓄積がないから説得力が皆無ですよね。音楽たくさん聴いてそれで音楽通自称できるならそんな簡単なことはないですよ。というか音がどうこうってプリミティブなフェーズで音楽を語るのって、それはもう音楽好きでもなんでもなく単に音が好きなだけじゃないんです?

音と音楽は違いますよ。前者は鼓膜を介して信号へと変換される言うなれば波形の表出で、後者は文化です。文化というのは"そのもの"ではなく対象同士の関係性によって浮き彫りにされる価値です。こう書くと難しく聞こえるかもしれませんが、例えば「この楽曲はこれを受けて作られた」みたいなバックグラウンドから、受け取り手が違った観点から対象への価値を見出すことがあるでしょう。文化、ないし音楽とはそういう営為によって構築・破壊・再構築され続けてここにあるものですよね(これを否定されたらもうおしまいですがね)。

音楽に対してみなさん不勉強すぎません? 音楽に対してというか、文化全般に対して。音楽は(消費される前提で作られたものでなければ)一種の芸術として解釈されるべきで、それなのに芸術としてではなく例えば食べ物のように「削られて消費されるもの」として解釈されることが一般化している現代に一種の馬鹿馬鹿しさを感じます。聞くだけでいいわけないでしょ。聞くことそのものなんて誰でもできます。極論、赤ちゃんとか犬とかでも音楽を聞くことはできるんだし。聞くことじゃなく、知能を総動員して鑑賞することが大事なんじゃないです? それなのに背景や背景を理解するための学習をせずに音楽を浪費している。いや、その態度自体は別に間違っていません。音楽とは一部の人間にとって消費されるものとして受け取られてしまっています。けれど、それで音楽通自称するのやめてもらっていいですか? もう一度言いますけど、ただたくさん聞いてるってだけで音楽好きとか片腹痛いし気持ち悪いです。自称しなきゃいいじゃないですか。いち消費者としての自覚を持ってください。あと、自称せずともそのアクションを起こしていないだけでも、それは音楽と真摯に向き合っていないのと同じですからね。蟻の巣を興味深そうに覗いて、最終的に水を注いで反応を楽しんでいる子供、私にはあれと同じに見えます。比喩とかではなく、態度としての稚拙さです。

別に誰が、とかではないです。誰のことを想像しての文章でもありません。ただ不意に虫酸が走った、それだけです。

 

上の文章にも説得力がねえな。ないなら言わなきゃいいんですけど、まあそんな夜もある。まあとにかく、俺の地雷はこんなところにある。これを読んだ人、不快な思いさせてすまん。許してくれ、そんで触れないでくれ。

結局リーガルリリーのどこがいいのか

 

 

 

みなさんロックは好きですか。

みょんの曲に『君はロックを聴かない』とありますが、みんなロックを聞かないことこの上ない。どうして? たぶん先天的な性質によるものです。私がロックを聞くのは音楽を芸術として見ているからです。みなさんはどうですか?

 

今から多田李衣菜みたいにロックロックと連呼するんですけど、許してください。こいつはいわタイプなんだなとでも思ってくれたら。

ロックにはいくつかの定義がありますが、私はそれらの共通部分としてロックを俯瞰しております。ロックはそもそもどこかの国の労働者階級の反骨心が音楽という形式になって立ち現れたものです。なので、反骨心があったり、何らかの主張が含まれていることが必要条件。これは十分条件ではないですね。ヒップホップとか入っちゃいますから。

次いで、ビートルズストーンズの血を継いでいる音楽形式。これが第二の必要条件。裏を返せば、どちらかが成立していない限り本当はロックと呼べないわけです。

しかし最近は後者の条件だけを満たしたものがロックと呼ばれがちです。大多数の人は音しか聞いてないんです。ちょっと前に気づいたことなんですが、歌詞ってふつうの人は読まないんですね……。てっきり全員が読んでいるものだと思っていたので。どうりで噛み合わないわけだ。

 

後者の条件が、ロックかFAKEかの判別条件になっています。いくつか例をあげてみようかな。ボカロとかね。高校時代から烏屋茶房をずっと聞いていますが、彼の音楽には主張がこもっているのでいいです。気になる人は調べてみてください。『文学少女インセイン』とか『ダンスダンスデカダンス』とか聞いてみてね。

主張がない音楽、あるいは主張がしょうもない音楽は、形態がどれだけロックであったとしてもそれはロックじゃないです。断定口調で書いたのは、ロックの定義についてたくさん調べた結果です。これに関しては、逆張らずに認めた方がよい。それでよく勘違いされがちだけど、私が好きな音楽はロック風ではなくロックです。たまさかこの文章を読んでいる人はそう認識してくださいね。

で、もう一度自問自答して欲しいんですが、ロックが好きですか? それとも、ロック風が好きですか?

 

推しバンドはロックなバンドです。ロック風じゃないです。例えばマカロニえんぴつはロックじゃねえサウンドをよく作りますけど、言ってることがなんだかこうロックなんですよねえ。

クリープハイプとか好例じゃないです? 『ハチミツと風呂場』とか『ラブホテル』とかで勘違いされがちですが、彼らはひたすら愛について歌います。で、詞がロックなんですよねぇ。ボーカルの尾崎世界観は小説を描き始めて、芥川賞の候補にまでなりましたが、やっぱりな、という気持ちです。クリープハイプの音楽は文学だから。自分の抱いた感情と世間の姿勢とが一致していることになんとなく嬉しさがあります。

では今日はリーガルリリーの話をします。リーガルリリーは何かというと、私の推しバンドですね。めっちゃ好きなSSを描いてる人がいるんですが、その人が新譜の発売日0時にリーガルリリーを聞いててとても嬉しくなりました。「正解した!」みたいな。

リッケンバッカー』を聞いたことのない人は多くないと思うので飛ばすんですが、そこから先の話。

 

open.spotify.com

 

この曲で完全に沼に落ちた。ロック風が好きな人にはいまいち通じないと思うんだけど、ペキペキしたある意味チープなサウンドからこの展開と文学的な歌詞。

 

明日を

みうしなわないでいるよ。

 

きみの体温と吐く息を

全部忘れても

 

プラットホーム

ああ 揺れ行くサイレン 

 

ぼくは、とべない

飛べない。

 

わかりますかこの繊細と大胆の掛け算の美学が。いい歌詞ってこういうことなんですよ。「きみの体温と吐く息を全部忘れても明日を見失わないでいる。ぼくは飛べない」ですぜ。考えれば考えるほどなんと儚くて悲しい方向への勾配であることか。こんなに悲しいリリックがベッキベキのロックサウンドに乗ってやってきて、台風みたいに疾走して、言いようのない虚脱感と未来へのちっぽけな光を残していく。これができるからすごいんですリーガルリリーは。

 

open.spotify.com

 

『ジョニーは戦争に行った』って映画があるんですが、たぶんこれにインスピレーションを受けています。

 

ころしたよ、ころしたよ

空と街の交差した空中から

1つ1つ1つと降ってさあ僕らは

僕らは帰ろうか 

 

戦争に行って人を殺さざるを得なくなった芸術家のお話ですが、個人的にポイントなのは決して反戦の歌ではないことです。真っ白な空間に事実がぽつんと落ちているだけ、「殺したよ、さあ帰ろうか」、戦争の無惨さを伝えるのでもなく事実だけをニュースキャスターのようにポップな歌に乗せて歌い切ります。私は反戦の歌があまり好きではないのですが、こういう姿勢はなんだか"正しい"ような気がするんですよね。

ロック斯くあるべし。戦争ダメ絶対なんて小学生でも書ける歌詞だしな。

 

 

open.spotify.com

 

家のシケモクをとっておいてもね

君に会えることはないのね 

 シケモクはタバコのやっすいやつって認識で大丈夫です。

 

待ち合わせは人目を気にして

別れ際に落とし物をして

落とし物をして会う口実を作るメソッド。

 

酒気帯びで地球をベッドにしたい。

笑っていたい、君に会いたいなリリー。

これでサビの1フレーズです。いや歌詞。わかる人もわからない人もいると思うんですが、これすごい歌詞だと思うんです。センスと感性が爆発している。

酒気帯びで地球をベッドにしたい」

たぶん別れた恋人(or人)についての歌なんですが、失ってしまったものに一生囚われつつ、お酒を飲んで笑っていたいなと願うあの投げやりな浮遊感を「酒気帯びで地球をベッドにしたい」で表現するの天才の領域ですよ。「お酒を飲んだらなんだか楽しいような、それでも苦しいな、会いたいな」を「酒気帯び〜以下略」に変換できる人いますか? とんでもねえ感性と言語化能力だと思うのです。

「シケモクをとっておいても君は来ない」からの「君に会いたいなリリー」。その切なさが曲の最後に溢れてしまって、「リリー、リリー、リリー、」と何かに縋るように歌い続けるのです。シケモクをとっておいても会えることはないのにね。文学だなぁ。

 

 

 

ということで以上です。芸術を鑑賞するためには素養が必要なのである程度は仕方ないと思いますが、"音"でなく"音楽"を楽しみたいなら是非とも歌詞に意識を向けてみてください。まあでも、リーガルリリーを良いと思えるだけの感性とか素養とか、ないものは仕方ないと思います。でもその代わり、自分がいいと思ったものを言語化することはどうか忘れないでください。あと、みんなも推しバンドの話をしてね。

 

 

東京現代美術館について

 

 

記事として何かを発信する以上、内省とか日記的なものよりは、事実に基づいたものを書きたいと思うのです。なぜなら、私の言葉には価値がないと思うので。と書きましたが、つまりたとえば、病んでる人を見てもあまり楽しくないですよねえ。病むことにかけては右に出る者がいないという自負がありますが、同時に病んでいる様子を他人に見せることで何か安全な世界に身をおきたいという深層心理的欲求を満たしてきたようにも思うのです。つまり逃避です。予防線、弥縫策、あてがう言葉は何でもよく、ただ結果として醜悪な自分がそこにいる。そういう人間です。

自分の話ばかりしても仕方がないですね。話をしましょうか。

 

少し前に東京に行っていて、何のためにと言われると、美術館に行きました。美術といっても私は日本画にすこぶる興味がなく、逆に西洋画からの流れを汲む芸術が好きです。これは芸術に触れる前に知っていた様々な断片的知識がひとつの流れとしてつながったことへの一種の法悦に起因します。少し前までは西洋画にお熱だったのですが、今はやっぱり現代美術です。というわけなので、東京現代美術館に行きました。

企画展のほうを見に行ったのですが、常設展があまりに豪華でびっくりしました。びっくりしたとしか表現できないぐらい驚いた。メンバーがね。かの有名なウォーホルのマリリンモンロー、クラインの青、ツァイ・グオチャンの爆薬アート、ゲルハルト・リヒターラウシェンバーグ……。極め付けには、本で散々読んだ、リキテンスタインの『ヘアリボンの少女』!

美術へのエクスタシー、それは断片と断片とが繋がる瞬間に稲妻のように走るものだと思うのです。どうしてヤン・ファン・エイクが称賛されたか。どうしてモナリザが名画なのか。どうしてベラスケスが画家の中の画家なのか。どうしてフェルメールといえば『真珠の首飾りの少女』なのか。それらの理由が絵画という固形物となって目の前に現れること、断片的だった情報が接続される瞬間の法悦、これこそが芸術を食する本質だと思います。

というわけで、みなさん、東京都現代美術館に行きましょう。清澄白河が最寄駅です。

ところで、表記は「東京都現代美術館」であってるんですかね?間違ってたらすみません。

 

 

 

ブルーピリオド10巻は5月21日らしいです。美術の入り口としてちょうどいい漫画ですよね。少しでも美術に興味のある人はRPGみたく私に話しかけてください。無限に話ができます。

null

 

 

例えば底抜けに明るいものがかえって底のない穴に落ちるような虚脱感を与えうるように、絶望を連れてくるのはいつも希望である。みなさん気分はどうですか? 私は"虚(うろ)"です。虚ほど確かに実在している実感を与えてくるものはないのに、虚言だの虚数だの、虚という字にはどうにも「実在しない」というニュアンスが含まれているようですね。何かがあるのと何もないという状態が不可侵的に存在しているのだとしたら、この世の99%は虚です。世俗的なニュアンスでのシュレディンガーです。わかりますか?

絶望を連れてくるのは希望というのは引用ですが、底抜けに明るい云々は今日思ったことです。そういえば、本当に精神にダメージを与える景色というのは、夜ではなく太陽の上がった昼間だったりしませんか? 雲ひとつない快晴、じりじりと照っている太陽、その想像で私が感じることは絶望です。止まない雨はないとかよく言っている人いますけど、晴れてなお依然として何も解決していないことに気づいたとき、私は絶望をします。その実なんにも望んでなどいないのだから、本当は絶望なんて言葉を当てがっちゃいけないんでしょうけど。

まあ、そんだけです。もっと明るい話をしたいですね。というか絶望ってなんだ。状態を表すはずの言葉であるお前がどうして感情の代弁者となっているんだ? まあ、別になんだっていいか。

 

 

nimrod

 

 

open.spotify.com

 

 

 

西洋美術のことを考えはじめたのとPeople In The Boxを聴き始めたのと小説のニムロッドを読んだのとに直接の相関はなく、すなわち時期の偶然が半分、もう半分は交絡ということです。

今からニムロッドの話をします。読みたい人は読んでください。

 

 

 

 

ブリューゲルについて 

 

 「好きな画家を5人挙げてくださいと言われれば、ブリューゲルをまず挙げるだろう」と書いたのはいいのですが、そもそも「好きな画家を5人挙げてください」という質問の"解ってなさ"にガッカリしそうですね。まあ、ともかく、私はブリューゲルが好きです。これは「実地に赴いてブリューゲルの作品を見てスタンダール症候群に罹患したから」みたいな素敵な出会いがあったわけではありません。絵画は理屈として色々知っているだけなので、本質的な絵画愛を獲得するに至っていません、そもそも。ブリューゲルについても、西洋の絵画にしては遊び心があるからなんとなく気に入っている、といった薄い理由だけで好きな画家の中に挙げているのです。遊び心のくだり、同様の理由でヒエロニムス・ボスも気に入っています。

f:id:fueru_morikubo:20200311045209j:plain

いつかの記事で引用した「子供の遊戯」です。はてさて、西洋の絵画と聞けば宗教的なものが多いようなイメージを思い浮かべますが、これはその点に関して頗るつきの問題児ですね。そもそもどうして西洋画と聞いて宗教的なものを思い浮かべるかといえば、これは気になった人は調べてもらえればよいのですが、言語の通じない他民族や識字のできていない低階級の人に対して宗教を視覚的に説明するための試みだったから、とここでは記しておきます。そこから"なんやかんや"があって絵画は宗教的なモチーフから解放されたわけですが、やはり宗教的なモチーフ、それからもう一つ、貴族階級の人物の肖像というジャンルの作品はどうにもつまらんわけですよね。後者については、これは絵画がビジネスという大きな流れの中に現在も組み込まれている理由そのものです。この辺りの話題はこの記事のレゾンデートルから逸してしまう故に割愛します。ともかく、昔は「宗教的な作品」「貴族の肖像画」の2つが主流だったところに、ある時点からこのような絵画が持ち込まれた、あるいはローカルな空間からそのような流れが発生したというわけなのです。このあたりは、モナリザがどうして名作と呼ばれているかに関係してきます。ここまでを真面目に読んでいるみなさんはそもそも頭がいいと思うので、皆まで言わなくとも理解できると思います。

 どうしてブリューゲルを持ち込んだかに話題を戻しましょう。この記事はニムロッドについて解説するための記事ですが、そもそもニムロッドとはなんぞや? という方のために、意味から解説していきたいと考え、ついでに美術の話でもするかと思い立ってここまでをひといきに縷縷綴ったというわけです。

f:id:fueru_morikubo:20210318162227j:plain

ウィーン美術史美術館所蔵、ブリューゲル作の『バベルの塔』。左下で偉そうぶっているのがニムロッドです。ニムロッドはつまり、バベルの塔の建築を指示した偉い人の名です。同時に、人生を賭けたプロジェクトを神によってご破算にされてしまった哀れな男でもあります。バベルの塔の逸話を知らない人はいないと思うのでここでは説明しません。さて、ここまでが西洋美術とニムロッドとの関わりです。次の章では、ニムロッド - People In The Boxに触れようと思います。

 

 

ニムロッド - People In The Box

 

『ニムロッド』を著して芥川賞を受賞した上田岳弘は、当該のバンドのこの曲が好きで、このタイトルで小説を書きたかった、とインタビューで語っています。曲のリンクは記事冒頭に貼付しているので、興味がある人は聞いてみてください。

意気揚々とこの章を立ち上げたのはいいのですが、歌詞の意味が全くわからない(正確には、自分なりに解釈することはできても、正解にたどり着いたことへの根拠が乏しい故に、それは理解できていないことに同値である)し、本人たちは歌詞について語らないため、つまり、書くことがありません。まあ、後述する小説『ニムロッド』を読むよりも曲を聞く方がずっと対価が少なく済むので、聞けばよいと思います。聞いてくださいとは言わないです。別に聞いて欲しいとは思っていないため。

曲はなんか、かっこいいと思っていつも聴いています。これ以上言語化すると嘘になっちゃうので黙っておきます。

 

 

『ニムロッド』 - 上田岳弘

 

 

メインディッシュ。2019年1月、第160回芥川賞受賞作です。さて今回は、あまり作品の内容には踏み込まず、自分なりに思ったことを論考していこうかなといった次第です。

仮想通貨。従来の中央集権的な通貨制度と一線を隠しているのは、それらが分散集権的であるという性質だとしばしば語られます。どのような仕組みで仮想通貨が通貨として成立しているのかというと、作中で語られていることには、価値のないものを誰かが価値のあるものとして信じることで、実際にそこに価値が付与される。我々はこの文言を見て、そんなケースもあるのか、と思ったりしますが、実際のところはこれって珍しくもなんともないのです。現実の物質的な通貨を例に挙げてみましょう。紙幣って特殊な加工が施された紙切れでしかないけれど、我々はその紙に1000円や10000円といった価値を信じているから、そしてその価値への信念を全員が共有していることを同様に信じているから、実際に価値があるものとして使うことができるのです。

類似のものとして、いくつか卑近な例を挙げてみましょうか。ブランドもののバッグや服は、そもそもブランドに価値があると全員が信じているからこそ身につけることに価値が生じています。これはあまりにも当たり前のことで、誰も知らないようなブランドを身につけていることに付随的価値がないことから直ちに導かれる真理です。そもそも、誰も知らないような会社のものをブランドと呼ぶこと自体矛盾を孕んでいる気がします。(ブランドなんぞに興味がない、機能美こそ肝要であるとそっぽを向いている層も一定数いますが、構造としては貨幣となんら変わらないということを認識するべきだよな、と思います。)

エポニムという概念をご存知でしょうか。「ギロチン」や「サックス」みたいに、ものの名前が人名に由来している言葉のことです。エポニミー効果というのがありまして、これは「自分の名前がつくかもしれないという期待のためになんらかの技術的革新や発展が促進される効果」のことです*1。これも大多数が価値があると信じることにより実際的価値が生じている例ですね。何かしらに名を残すことに価値を感じることは熟慮するに虚しい行為ですが、大多数の人間はそのことに価値があると信じて疑わないため、結果として無から有が生じることになります。

仮想通貨、貨幣、エポニム。それらに共通する性質を一般に敷衍させてみると、ひとまず以下の命題が発現することになります。つまり、任意の価値は複数意思の信念の実在確認により生じる。これはどうでしょうか? 偽な気がしますね。たとえば、物理的な対象は信じると信じないとにかかわらず価値がある。五感や本能に近い領域については、人間の信念は価値に直結するとも限りません。(尤も、感覚器官による認識の作用を信念に基づいていると見做せばまた話は変わってきそうですけどね。)では、物理的でないものを範囲に規定するとすれば?

私は価値について、広くそのような性質を有していると考えます。冒頭で出した美術についての話題をここで再提示するのですが、たとえば美術における絵画のビジネスは、誰かが高額で絵画を買い取ると、それに従って大衆の信念の更新が発生し、正方向のフィードバックが生じます。もう少しわかりやすく言うと、ある絵画が10億円で競り落とされたとき、人々はその絵画に10億円の価値を認めるようになり、結果としてその絵画の価値は実際に10億円以上になる。美術作品の価値は、誰かがその価値を信じることで正方向に拡大していくものです。これは構図として、上述の命題に同値です。ある絵画が10億円で競り落とされるためには誰かがその絵画に10億円の価値があることを信じている必要があり、そしてその信念が感染することによって、事実として10億円の価値が生じる。これは、全員の信念が事実的価値を生む構図そのものです。

価値とはなんであろうか、という質問に対し、これらの考察を経て、断片的にでも推察がなされるのではないでしょうか? すなわち、抽象的概念としての価値は物理的媒体に元から付随しているものではなく、価値があるといった信念を抱く人数によって後発的に結びつくものである。何をそんな当たり前のことを、と思う人もいるかもしれませんが、これは決して当然の事実ではないです。というのも、第一に、価値は初めから物質に付随していて、人間がそれをどう解釈するかは人次第であり、我々が価値と呼んでいるものは本来的な意味で価値ではない、といった立場を考慮することができるからです。第二に、価値と価値を認める信念の数とを結びつける考察は直感に反しているからです。

前者については、つまり「誰も手をつけていないまっさらな対象に価値はあるのか?」という問題に帰着されます。私の主張する命題はこの問いに「価値がない」と回答するもので、カウンターサイドは「価値がある」と主張するものです。私は、仮に価値があるのだとしても、その価値は実在することができないのではないか、と考えています。後者はもっともな糾弾で、この理屈でいくと、たとえば本なら、純文学より大衆文学の方が価値があるという主張を暗々裏に認めてしまうことになります。これは、大衆という語彙に着目した上での考察です。この問題を解決するにあたっては、信念に対してデジタルでなく連続的な尺度を導入しなければならないのですが、個人的にはあまり重要でないことだと思えるため、これ以上は論じないことにします。

さて、ここまで論じてきことはつまり、価値とは他者の信念によって初めて規定されるということです。これを述べることによってようやく『ニムロッド』に話を戻せます。この作品の扱うテーマの一つに、人間が完璧に近づくということはどういうことか、というものがあります。"完全な存在"への志向を象徴するシーンはいくつかあるのですが、配慮のため伏せておきます。作中で描かれている"完璧への志向"は、思うに、人間としての価値の喪失に結びついています。つまり、人として完全であればあるほど、人間としての価値を失ってしまう。完璧な存在とはある意味神のようなもので、ここでようやく作品名『ニムロッド』が大きく関わってくることになります。先述した通りニムロッドはバベルの塔の建設を支持した人物で、旧約聖書中で初めて神に反抗した人物とされます。ニムロッドという言葉が象徴するのは、神への漸近です。作品の解釈として同時に神への漸近は人としての価値の喪失であるというのを述べています。また、完璧への志向は、これは作中では技術の進歩やデジタル化、情報化社会として語られています。結果的に浮かび上がってくるのは、次に示す命題ではないでしょうか。

"行き過ぎた技術革新により、将来的に人類は人間としての価値を喪失する"

一人一人が完璧であるが故に、かえって価値が見出されなくなってしまう。この結論の説得力は、この記事で書いたすべてのことを以てしても不足しているように思います。が、読んでいただければ、確かにそうだな、ぐらいは思っていただけるのではないでしょうか。配慮により情報を伏せているので、どうしてもこのような形式になってしまうのです。

 

 

自分なりのニムロッド

 

 

完璧に近づこうとして罰せられたニムロッドは、しかし、反抗の象徴であると思っています。そもそも「ニムロッド」という言葉自体、ヘブライ語か何語かで「我々は反抗する」という意味らしいので。私が今後何かにつけてニムロッドを引用するとき、上述の考察を経てのニムロッドである、ということを諒解していただければ、それ以上のことはないです。背後には、旧約聖書に始まり、ブリューゲルの絵画、あるいは西洋美術史、とあるバンドの曲、そして一冊の小説があります。価値とは後天的に獲得されるものであり、また、完全体への勾配がいつか人間としての価値の喪失を導く。この2つの考察は、上に記述したすべてのことに基づいています。

そういうわけです。以上。

 

 

 

*1:ここは要出典状態なので、あまり鵜呑みにしすぎないでください

𝑷𝑼𝑰 𝑷𝑼𝑰 モルカー

 

 

実家に帰省しているのですが、適度な運動をとったり一汁三菜ここにありといった食事を摂ったり新聞を読んだり、そういう普遍的な行為に楽しみを見出せるようになってきて、歳をとったなあと思っています。複雑な気分です。歳をとることはけして良いことではないので。

自分の内面についての文章をよく書いてしまいがちですが、それを他人が読んでも何の足しにもならないし、面白くもない。これは日記に限らずお話を書いているときにもよく起こることです。日々の思索をお話に投影するために文字を書いているのですが、生々しい感情を剥き出しにすることが内省のための一番の近道であり、その結果として「なんにも起こらないが、登場人物が何かを考えていて、思考の中で結論を出す」という形式の文章を書きがちです。これがよくない。言葉を選ばずに言うなら、かっこ悪いと思っています。現実になんにも起こっていないのに登場人物のマインドが変化して終わり、それは物語ではなく嘘です。一応そうならないように気をつけてはいるのですが。

ここ最近は二次創作ではなく普通の創作をやっています。小説を書くとどうしても周囲の反応が気になってしまい、サイトの通知欄を眺めては今日もお気に入り登録されなかったとがっかりする日々が続いています。馬鹿馬鹿しい。承認欲求のお化けに、この歳にしてまだ取り憑かれています。オバキュームをください。ルイージマンションに出てくる掃除機です。

その点、二次創作はいいものですよねえ。その点というのは訴求力や集客力という観点においてという意味です。人様のキャラクターを借りることで、自己表現をしつつ、人に見てもらうことができます。他人の褌がどうこうという議論がありますが、私は確かにそうだなと譲歩しつつ、でもどこかの判決で「二次創作による表現は、作者の表現したいものが表現されたものとしての側面と、版権元とを切り離して考えるべきだ」というのがあったなあとしみじみ思うのです。つまり、二次創作とは、版権元の表現技法を媒体として作者の意思・思索・人生観等を表現したものである。版権元に無許可で行われた二次創作であっても、オリジナリティがある部分については二次的な著作権が成立するというものです。元々は、二次創作の同人誌を無許可でインターネットに掲載していたサイトが提訴され、「版権元に対して無許可でやっているのだから勝手に掲載してもいいよね」という被告側の意見をはねつける意図での判決です。判決は常々、世の中にとって妥当な方向に下るものですので。しかしこうやって判決が下っている以上、他人の褌だから一様に価値がないと見なすことに疑問が呈される時代がやってきたということなのですね。「ベースは人の作品なんだからしゃしゃるな」という文句に対し、確かになと思いながらも、でも判決が出てるしなあと思うようになりました。

 

ソリッドな話題を持ち込んでしまってなんだか申し訳ありません。でも、くだんの「しゃしゃるのが悪か悪でないか」議論に対しては様々な意見があり、二次的著作権が認められている以上著作権よりは効力が弱いながらも著作物としての価値が認められるものとして自分は考えています。どうしてこんな話をしているかというと、まあ俗っぽい話題で。一次創作と承認欲求の話です。一次創作は立派に創作をやっている透明感があってよいものですが、まあ誰も見ないのです。二次創作は他人の著作物を好き勝手使っている後ろめたさがありながらも、多くの人の目に止まる。どっちがいいのかなあと思いながら今日という日を過ごしています。皆さんはどう思います? どうでもいいですか? うん。わかる。俺もまあ、正直どうでもいい。というか、そんな風な天秤にかけている時点で創作向いてないよな。知ったこっちゃねえな。

創作についてぐちぐち話してる人間があんまりいけすかないのです。敷衍すると、私は私のことが嫌いになってしまいますが。別に嫌いじゃないです。だって、自分のことは好きとか嫌いとか評価するような対象として見てないでしょ。だからもちろん好きでもないし、感情は"無"です。オタク!!! 創作について嬉々として話すな!!!!! 創作についての意見や主義主張を文字にして誰かに見てもらおうとしている時点で愚かですよね。創作については話さないほうがいい。というか、何の感情も抱かないほうがいい。何か感情を抱いた時点でそれはもう創作じゃないし、というか、創作について生き生きと話せるほどに手を動かしたんですか???????? 説得力なくない?????? ウワーその通りだ 許してくれ

 

 

 

𝑷𝑼𝑰 𝑷𝑼𝑰 モルカー

 

 

 

オタク!!!!! 創作するな!!!!! 他人からやれって言われてやる創作は大抵つまんないぞ!!!!!!!!!!!!!

 

 

中華料理について今一度考え直したほうがいい

 

 

 

ラーメン屋のチャーハンにただならぬ憧れがあり、幼少期にラーメン屋のチャーハン巡りを親としていたほどです。これは実話です。

どうしようもなく愛おしいものがあったときに、その対立概念を必要以上に憎んでしまう癖があります。心理学的な過誤の一つだと思っています。チャーハンに対して、ピラフを必要以上に憎んでいて、折しも、なんだあの味のうっすい米料理は、真っ白なフォルムをしやがって、と思う時があります。現実のピラフはちゃんと味がついており美味しいのですが、ピラフがチャーハンに対応する概念というだけでどうにも憎たらしくて仕方がないのだ。美味しいチャーハンは茶色い色がしている。気がする。なので、茶色の化粧をしていない米料理は基本的に悪です。どうやったら、あんな風に茶色のコメの美味しいチャーハンを作れるのだろう。本当に疑問です。これは、自分で作って茶色にならないというわけではなく、純粋に疑問符を浮かべているのです。

中華料理屋って多面的だと思っていて、これは、様々な食べ進めかたが用意されている。定食を頼むもよし、アラカルトで2か3品を頼むもよし、前菜から仕上げまできっちり揃えるもよし。中華料理に対して一つ思うことは、あやつらは憎い。だってほら、全部美味しそうなので。好きな中華料理を挙げなさいと言われると困ってしまう。人並みに拉麺が好きだし、チャーハンは言うまでもないし、前菜でも皮蛋、蒸し鶏にネギのソースをかけたもの、クーシンナーを炒めるだけでも化ける。麻婆豆腐やら辛めの味付けをされた揚げ物の鶏肉はたまらないし、酢豚なんかも庶民的ながら美味しい。XO醬で海鮮やら牛肉やらを炒めれば小宇宙が完成するし、天津も良い。好きな中華料理は何か? そう聞かれれば、質問内容をちゃんと理解した上でこう答える、好きな中華料理は中華料理だ。

さて、どうしてこうやって中華料理に対して熱弁を奮っているのかといえば、まあ理由はない。とにかく、好きなのである。誰かに、自分は中華料理が別腹だと語った覚えがあるが、あれは嘘ではなく、真言だ。中華料理はすごい。胃の限界を軽々と越えてしまう。

薄々思っていると思うけれど、中華料理というのは奇跡の料理体系だ。世界三大料理には、中華料理の他にフランス料理やらトルコ料理が挙がっているが、あんなの嘘だ。中華料理は世界の数多の料理文化の頂点に立っていると言っても過言ではない。再認識したほうがいい。我々は中華料理に生かされている。中華料理は我々のDNAに刻まれている。他は全部FAKEだ。丁寧さとか繊細さとかテーブルマナーとかにこだわっている料理文化に未来はない。結局濃くて辛い味が正義なのだと、そのような答えに収束している中華料理こそが、世界のトップランナーにしてトレイルブレイザーだ。

 

フクロダケにあんかけをかけて食べるあの料理が心底好きでたまらないです。みなさんは食べたことがありますか?