架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

虚無日記

 

 

 

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  • 最近訳あってよく料理をするんですが、あ、訳あってというのはすこぶる嘘です。特に理由もなく料理をやっていて、これが好きって食材を全部投入して炒める、みたいなものばかり作っています。それでこの前「豚肉と人参と生姜とマッシュルームとキャベツをXO醬で炒める」という向こう見ずな炒めものを作ったのですが、なんというか、食材同士が大喧嘩して味が虚無だったんですよね。食べてる時に思ったのが、「これ自分が作ったものだから美味しく食べてるけど、人から出されたらぜってー食わねえな」というものでした。この感想はなかなか示唆に富んでいると思っていて、つまり、料理をする行為の本質は味の追究ではなく、自分の手を動かすことによって時間的な奥行きを料理のコンテクストに付加し、味の多少の劣性から目を背けることにあるのではないか? 味が多少劣っていようと、自分で作ったものだからという理由である程度食える、これこそが家事としての料理のメリットである、という気がしています。
    自分で作ったものが外食なんかをした時に与えられるプロの料理人の料理に及ぶわけがなく、外食の料金と自炊時のコストの差は(一因として)そこにある。言うまでもないことですね。でも先述の、「産みの苦しみボーナス」によってそのギャップが埋められるのだとしたら……?

    ところで、料理って楽しいですねぇ(cv:輿水幸子)。終わりのない追究は基本的に楽しいため。いつか終わりが来るものって楽しくないじゃないですか。人生とか。儚いから美しいって昔の日本人が声を揃えて言ってますけど、あんなの嘘です。負け惜しみです。酸っぱい葡萄ってやつです。例えば桜が美しいとされるのは、いずれ散ってしまうからではなく、単にピンク色が新鮮だからじゃないですか? 
    ふと思い出したことなんですけど、花に嵐なんて言葉がありましたが、あれは好事魔多しと同じ意味だそうです。良いことには必ず悪いことがついてくる。花が咲いているときに限って嵐が来る。月に雲というのもあるそうで、満月が出ているときに限って空は一面の曇天、という意味。古来から日本人はこういう自然の機微を逐一言葉にしてきたものですが、花に嵐、月に雲というとなんとなくカッコイイですよねぇ(cv:輿水幸子)。日常生活でこういう語彙がスッと出てきたら、風流がどうというより先に気持ち悪がられそうですけど。というか、好事魔多しって言葉もなんだかスタイリッシュだな。
    料理の話をしてたら、気付いたら言葉の話をしていた。そういう日もある。

  • プラン9 なだぎ武浅越ゴエ以外 知らながち   ーー自由律

    この前俳句の本を読んでたら、山口草堂って人名が出てきました。誤植かな?と思って色々調べてたんですが、本当に山口草堂は山口草堂らしい。山口素堂と山口草堂がいる俳諧という世界、殺伐としすぎているな。ちなみに山口素堂は、かの有名な「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句を読んだ人です。ほととぎすの表記どれだったか忘れちゃいました。