架空生命ストリキニン

小説、大衆音楽、芸術

サーカスについて

 

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 

 

 偉大だとされている文章や詩と対峙するとき、先入観を捨てなければならない。真っ新な無の状態から、それが一定の評価を受けているものだとはつゆも知らない人間の視点から、率直な思案がなされるべきである。濁りのないレンズから見通されたそれらに、もし負の感想を抱いてしまったのなら、それは審美眼の欠如の証左である。逆に世間様の感想と概ね一致するのであれば、正しいと呼んで構わないのだと思う。

幾時代がありまして
 茶色い戦争がありました

幾時代がありまして
 冬は疾風(しっぷう)吹きました

幾時代がありまして
 今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)
 今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
 そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
 汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 サーカスという言葉は昔と現代とでイメージを変えてしまっている。現代と、なんて書いたが、現代人の感覚を代表するつもりは毛頭ない。なので個人的な感覚として、サーカスと聞くと前現代的でなんだか暗いイメージが思い起こされる。このイメージ自体、中也のこの詩に引っ張られた結果なのかもしれないけれど。一行目から見ていこう。

「茶色い戦争」個人的にいい表現だな〜と思う。凝ったレトリックって色々あるけどこの"茶色い"は技巧を凝らしたそれらよりも何倍も価値があるんじゃないか? 個人の感想です。戦争には赤とか黒とかそういう色がつきものであり、そこに茶色。戦争から何年かが経って形跡が風化しているイメージが湧いた。これが作者の意図通りなのかはわからない。

戦争、冬の疾風と続いて今夜ここでの一盛り。まさに道化である。その道化を道化だと暴いてしまっている。その後に続くのが「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という底知れない擬音である。

前二つはゴムが伸びる(あるいは縮む)ような音だ、と感じる。ゆやゆよんはどうだろうか。ゆあーん、ゆよーんといった伸びきってだらしのないオノマトペに対して、ちゃかちゃかとしている。舌を間違って噛んでしまったときの音とも近い。

それの近くの白い灯(ひ)が
安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

観客様はみな鰯(いわし)
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジア
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

この辺りは本当によくわからない。何もわからないので何も書けない。許してください。